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支倉常長の旅・ローマ編

  • 執筆者の写真: 千葉正樹
    千葉正樹
  • 4 時間前
  • 読了時間: 5分
ジャニコロの丘から遠望するローマ。
ジャニコロの丘から遠望するローマ。

1615(元和元)年10月25日、支倉常長の一行はローマに入った。旅の最終目的地である。法皇の直接の命によって、仙台領での布教を行ってもらうことは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路開拓と並ぶ、二大ミッションであった。非公式ではあったが、この日、支倉は教皇パウロ五世に謁見している。

私たち夫婦は、1989(平成元)年3月26日にローマに行っている。この前の日、私たちは結婚式を挙げた。つまり新婚旅行である。古代ローマの遺跡を見たかったし、ルネサンスの美術にも触れたかった。美味しいと聴くイタリア料理にもときめいていた。かみさんが支倉常長のマンガを依頼されるのはこの二年後である。支倉の旅を追いかけてローマに行ったわけではなかったが、このときの体験は大いに参考になった。

日曜日、法皇さまの祝福を受けようと、2万人を収容するという広大なサンピエトロ広場は雑踏となっていた。
日曜日、法皇さまの祝福を受けようと、2万人を収容するという広大なサンピエトロ広場は雑踏となっていた。
広場を見下ろす聖人たち。
広場を見下ろす聖人たち。

1615年10月29日、支倉一行は盛大な入市式でローマ市に迎えられる。カトリックの総本山、現在のバチカン市国をなす、サン・ピエトロ大聖堂までは、華やかなパレードが繰り広げられた。

ローマ市民は熱狂して一行を迎えたという。サンタンジェロ城では音楽隊が一行を迎えた。一行が使ったちり紙を、バチカン博物館では今も所蔵している。柔らかな和紙は、絹製品であると思われたらしい。支倉はローマ市民権を与えられ、貴族に列せられた。

バチカン市国を守る衛兵たちはいまもラファエロデザインの制服に身を包んでいる。
バチカン市国を守る衛兵たちはいまもラファエロデザインの制服に身を包んでいる。
バチカン博物館の地図の間にて。16世紀の世界図に日本が描かれていた。
バチカン博物館の地図の間にて。16世紀の世界図に日本が描かれていた。

バチカンは広大である。一日では見きれない。私たち夫婦は滞在中、3回行くこととなった。

支倉が到着したころ、バチカンを中心とするローマは都市改造の真っ最中でもあった。

ルネサンスからバロックへ、ミケランジェロ、ラファエロ、ベルニーニらの美術家を動員して、中世以来の複雑な街路は直線道路で切り開かれ、広大なサンピエトロ大聖堂とその附属広場を教皇権のシンボルとして作り上げ、そこを壮麗な壁画と天井画が飾った。

改造期間は120年にも及び、ミケランジェロが主任建築家となって、サンピエトロ聖堂の改築に着手したのが1546年、大聖堂が完成したのは、1626年である。サンピエトロ広場の完成はさらに遅れ、1667年となった。支倉はその工事のまっただ中に訪れたことになる。

バチカン市国を守ってきたサンタンジェロ城。もとは古代ローマ、ハドリアヌス帝の廟である。
バチカン市国を守ってきたサンタンジェロ城。もとは古代ローマ、ハドリアヌス帝の廟である。
ボルゲーゼ公園のビンボーちゃん。「ビンボー」とはローマの言葉で幼児のこと。
ボルゲーゼ公園のビンボーちゃん。「ビンボー」とはローマの言葉で幼児のこと。

10日足らずの滞在期間中、私たちは歩きに歩いた。半分は着物姿で過ごしたかみさんの草履は底がとれてしまい、スーパーマーケットで接着剤(ペガミントスという言葉をようやく調べた)を買って、しのいだ。『地球の歩き方』は折り込みと書き込みで、ぐちゃぐちゃになった。古代から近代に至るローマを見尽くしたかったのだ。もちろん無理であったが、偶然に支倉一行の見た景色を追体験する機会ともなった。

支倉一行がイタリアに上陸したチビタベッキアに近い、オスティアの港湾遺跡にて。
支倉一行がイタリアに上陸したチビタベッキアに近い、オスティアの港湾遺跡にて。
オスティアの遺跡。優れた彫像はローマの貴族の舘へ持って行かれた。
オスティアの遺跡。優れた彫像はローマの貴族の舘へ持って行かれた。

都市改造にはその素材が必要となる。有名なコロッセオは半分、崩れかけたような状態で現在に至っているが、その半分は人為的に剥ぎ取られたのである。サンピエトロ大聖堂の建築部材とするためであった。

古典復興を旗印に進められたルネサンスの運動は、バロックの時代にいたって、その極点に達していた。古代ローマへの憧れは、行き過ぎた発掘(ほぼ盗掘)となり、学術的な手順は踏まれないままに、地下から現れる彫像が近世のローマを飾ることとなった。

古代ローマ、アッピア街道の松並木。
古代ローマ、アッピア街道の松並木。
アッピア街道は途中までは舗装され、自動車が通る。
アッピア街道は途中までは舗装され、自動車が通る。
キリスト教徒の地下墓地、カタコンバの一角には第二次世界大戦の頃のトーチカも残されていた。
キリスト教徒の地下墓地、カタコンバの一角には第二次世界大戦の頃のトーチカも残されていた。

支倉の旅は、しかし、完済することはなかった。日本におけるキリスト教の禁教と弾圧は次第に強化されていた。常長一行がスペインからローマに移動する頃、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、豊臣方についていたキリシタン武士たちは粛正された。キリシタン大名は領地を追われ、フィリピンなどへ出国を余儀なくされる。

その中でもかすかに希望となったのは奥州の地である。大坂夏の陣の直後、神父アンジェリスは津軽に流されたが、畿内のキリシタンを救援し、手元に呼び寄せている。奥州はなかば異国扱いを受けているからこそ、キリスト教徒を受け入れる余地を残していた。

「奥州王マサムネ」のもとであったらキリスト教布教は許されるのかも知れない。バチカンにおける議論は白熱したであろう。だが、政宗と協同して遣欧使節を派遣した家康の死去(1616年)によって、禁教はさらに強化される。帰途、スペインで法皇の使者を待ち続けた支倉であったが、その望みは叶えられなかった。

私たちはローマ滞在中、古代アッピア街道の沿道にあるカタコンバ、当時迫害されたキリスト教徒の地下墓地に行った。支倉もその話を聞くか、実際に訪れるかしたかも知れない。ローマ市街地からバスで20分くらいの所にある。

キリスト教徒となっていた支倉にとって、禁教下で信仰を伝えることが最後の望みとなったかも知れない。日本の国宝となっている遣欧使節団の招来品リストをみると、教会を一つ維持するために必要なものがそろっている。長崎の郊外には支倉一行から離れた武士が開いたという土地があり、江戸時代を通じて、キリシタンが潜伏していたという。カタコンバの暗闇で続けられた、秘めた祈りは、日本に伝えられたのであった。



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