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ケチャまつりの55HIROBA
新宿の高層ビル街の広場にバリヒンドゥーの門が立ち、まつりの準備が始まった。 ケチャまつりは、新宿三井ビルの55HIROBAで毎夏開催される、芸能山城組のお祭りだ。ケチャとはインドネシア、バリ島の民俗祭祀芸能、百人近い半裸の男たちが「チャッ、チャッ」という叫びで16ビートのリズムを紡ぎ出し、そのなかできらびやかな衣装に身を包んだ踊り手たちがインドの古代叙事詩『ラーマーヤナ物語』を演じていく。 この祭りは1976年に始まり、今回、2026年で第48回となる。コロナ禍で3回の中断があったが、半世紀に及ぶ歩みを積み重ねてきた。すっかり新宿の夏の風物詩として定着し、入場は無料、5日間の期間中、延べ1万人を超える観客で賑わう。 演じる芸能山城組は、組頭・山城祥二(科学者としては本名の大橋力)に率いられた、アマチュアの、音楽芸能活動を中心とする都市型コミュニティである。東京を中心とするが全国にメンバーが広がり、私もその一員である。 山城組は映画『AKIRA』の音楽を担当して、広く知られるようになったが、活動は世界でブルガリア以外で最初に再現に成功したブルガリア

千葉正樹
8月15日読了時間: 6分


サウンドオブミュージックの作り方
トラップ一家の「居城」となったレオポルツクロン城。 1965年に公開された『サウンドオブミュージック』は我が青春の映画でもある。甘酸っぱい思い出に惹かれて、今回のオーストラリア旅行の誘因ともなった。モーツァルトが生まれた音楽の都、ザルツブルクは『サウンドオブミュージック』の舞台、そこかしこにロケ現場がある。 今回のガイドさんは、映画についてとてもよくご存知で、愉快な説明をしてくださった。少し紹介しながら、映画の本質について、ちょっぴり考えてみたい。 マリアとトラップ大佐の結婚式はモントゼーの教会でロケが行われた。 ちょうどキリスト昇天祭でミサが行われていた。 教会外の広場は民族衣装でお祭り気分。ワインが次々開けられている。 映画の舞台として最初に案内していただいたのは、ザルツブルク郊外のモントゼーの教会。モントゼーとは英語で言うならmountain sea=山の海、近くに湖のある、山の中の小さな街だ。 ここがマリアとトラップ大佐の結婚式のロケ場所となった。ちょうどキリスト昇天祭でミサをあげていたので、雰囲気を味わうことができた。...

千葉正樹
7月17日読了時間: 3分


帝国首都の広場
皇帝の居た宮殿は圧倒的なボリュームを持っている。 「帝国」というとどのようなイメージだろうか。『スターウォーズ』のダース・ベイダー卿にデススター、19世紀、日の没することのなかったイギリス帝国、日本も周辺に兵を進めて大日本帝国と称した。力任せに人びとを圧倒する、怖い存在、それが帝国かもしれない。 帝国とは、難しくいえば、複数の民族・王国・領邦を支配する、上位の権力態を意味する。その首都はどのような特徴を持つのか、特にそこの広場はどうであったのか。今回はハプスブルク帝国の首都、ウィーンを眺めながら、一方的に批判するのではなく、少し距離を取って、帝国というものを考えてみたい。 宮廷広場のマリア・テレジア像。 帝宮の傍らから現れたローマ時代の遺跡。 ウィーンはローマ帝国軍の宿営都市としてつくられた、ヴィンドボナがその出発点になっている。最初から帝国の都市であった。 ハプスブルク家がここに拠点を置いたのが13世紀、それ以来第一次世界大戦の終わる1918年まで、途中いくつかの断絶はありながらも、帝国の首都であり続けた。神聖ローマ帝国からオーストリア帝国へ、

千葉正樹
7月8日読了時間: 5分


幸せの市役所広場
市役所広場の露店街を行く、カップルさん。どうぞお幸せに! 30年ほど前から広場と呼ばれる空間の研究を続けている。一年前には吉川弘文館から『江戸の広場と公共性』という本を出した。 世界中の広場を訪ねてきているけれど、2026年6月1日、オーストリアのグラーツGraz で出会った市役所広場(ハウプト広場Hauptplatz)は素晴らしかった。ツァーだったので自由時間は20分、その間、文字通り駈け回って、写真に収めた。 18世紀に建てられたというグラーツの市役所。この前が広場になっている。 市役所広場なのだから、主役は市役所だ。18世紀に建てられたという堂々としたたたずまいが印象的だ。日本では市役所というと「官の空間」=「お上の空間」であまり親しみは感じない。でも、オーストリアを初めとするヨーロッパ諸国では、市役所は市民のものであって、みんなから愛されている。グラーツはどうだったか確かめられなかったが、よく地下などがレストランになっていて、飲んべえが昼間から楽しんでいる。 市役所で結婚したお二人を囲んで、記念撮影。 ヨーロッパでは市役所結婚が盛んだ。日

千葉正樹
6月25日読了時間: 3分


グループツァーのプラスマイナス
ドナウ川クルーズ。国旗が干してあるパンツに見えると友達が書いてきた。 オーストリアの旅は衝撃から始まった。グループ23名中、17名分の荷物が届かない!私のも届かず、パンツがない、山用の厚手のシャツがない、望遠が使えない、ひげが剃れない。 ロストバゲージの届けは、スマートフォンの英語サイトからしか、それもひとりひとり、打ち込まなければならないというもの。添乗員さんが冷静に指導してくれて、どうやら打ち込みが終わったのが最初の晩の10時半。 でも、私はまだいい方で、12時すぎてもサイトが容量オーバーでうまくつながらず(500個もの荷物を成田に置き忘れたらしい)、翌日もスマホにかじりつきながらの旅行となった方がいた。 私は着替えは一切トランクに入れていたので、夜中にパンツそのほかを洗い、すっぽんぽんで寝て、翌朝それを身につけるということとなった。 急遽、購入した衣類を守るたびくまチール。 そこで最初のミッションとなったのが、パンツなど衣類やら歯ブラシやらの購入。地元ガイドさんの案内で、まとまって買える店を紹介していただいた。 ひとりだったら、スマホでの打

千葉正樹
6月9日読了時間: 4分


政宗の戦場
古戦場の草むらで思いにふけるチール。 連休明けの空いている日を利用して、福島県にある伊達政宗の古戦場をめぐってきた。かみさんの運転。かみさんは史料に基づいたマンガ『独眼竜政宗』を出している。それを参考に政宗の命運に関わった二つの戦い、人取橋(ひととりばし)合戦と、摺上原(すりあげはら)合戦のアウトラインをなぞってみたい。 人取橋の戦場はいまは国道4号線の際にある。 名もない橋だが人取橋の後継。 天正13年11月17日(西暦1587年1月6日)、冬至を過ぎて間もない、寒風吹きすさぶ人取橋の地に政宗はいた。 現在の本宮市にあった人取橋。なんとも不気味な橋の名だが、その由来ははっきりしない。後世、戦でたくさんの死者がでたから、この名を付けたともいう。 この年の10月8日、隠居していた政宗の父、輝宗が拉致され、殺害された。その弔い合戦に乗り出した政宗に対して、佐竹・芦名・岩城・石川・白川の連合軍が立ち向かう。その数、三万。対する伊達軍は七千にすぎなかった。四倍を超す敵を相手にした、政宗の生涯でも最大の危機であった。 政宗は先に主戦場を人取橋に選んだ。東に

千葉正樹
5月13日読了時間: 5分


トキワ荘とカタルーニャと
復元されたトキワ荘前でひなたぼっこ。 東京、晩春の小旅行はトキワ荘マンガミュージアムと畏友、原正彦さんの写真展「カタルーニャ・クロッシング」を訪ねるものであった。相棒はいつものチール。 看板は当時の写真から復元された。 広場というものを考え続けて30年になる。今回の旅は、人びとが集う、という現象と意味、そして街にかならず広場が生まれるということ、などなど考える機会になった。 トキワ荘は現物は解体されて、ちかくに復元されている。生活感にあふれた展示から、若きマンガ家たちの広場であった時代を感じる。 ベランダも小さな「広場」だったかもしれない。 マンガ家が集まったという意味で、まずトキワ荘自体が広場であった。そしてトキワ荘の中の一段階閉じられた、マンガ家だけの広場、ベランダや共同の炊事場がある。 漫画家たちが編集者と打ち合わせる(言い訳する?)のに使っていたという公衆電話も再現。 あるマンガ家の部屋。窓の外は書き割り。 四畳半のそれぞれの個室にも、マンガ家がたむろするとき、そこが広場となる。安酒で議論したり、歌ったり、私の大学生活とも連続する時空間だ

千葉正樹
4月30日読了時間: 4分


石巻に生まれて
桜に包まれた石巻城址(日和山公園)。大きい鳥居の奥が本丸。 石巻の通称日和山神社は、私が誕生して最初のお宮参りを済ませたところだ。両親はここで結婚式を挙げた。日和山の名の通り、かつて船乗りはここから天候を見通し、また、入港するときは「山当て」、山との角度や距離感で航路を探っていたという。 また、ここは戦国時代の城、石巻城の跡でもある。段々になった曲輪には、近代になって桜が植えられ、憩いの場所となった。 鹿島御児神社の鳥居からは太平洋を望める。 案内板でひなたぼっこするチール。 旧北上川河口の門脇には311のあの日までは稠密な住宅地が広がっていた。 あの3.11の日、太平洋に面した石巻門脇地区の方々は、日和山の急な石段を駆け上って、避難した。しかし犠牲は大きかった。私の勤めていた大学の学生もひとり、ここで命を失っている。私が父に連れられてハゼ釣りに行った岸壁は破壊された。自転車で駈け回った通りの記憶だけが残っている。 曲輪の跡はいいお花見スポットになっている。 北上川方向から望む石巻城址。川と海を支配する拠点だった。 かつて石巻城を拠点としていたの

千葉正樹
4月12日読了時間: 5分


名古屋は春
名古屋の桜を楽しむたびくま、チール。 名古屋は爛漫の春であった。 今回の旅は、昨年2月に逝去された曽根原理さんのご業績を偲ぶ宗教思想史のシンポジウムに出席するため(3月22日・同朋大学)。たくさんの方がお集まりになり、曽根原さんが追求していた家康を神とした東照大権現を核とし、人が神になるという思想を追って、白熱した議論が交わされた。とても勉強になった。 さて、仙台から参加した私は前後の2泊をせざるを得なかった。おかげで以前から気になっていた名古屋城下町を、大急ぎで探索することができた。ひつまぶしにきしめんも堪能した。 内堀に近づかないと天守は見えなかった。 桜祭りで夜間開場していた。 名古屋に来たなら金のしゃちほこは欠かせない。 名古屋城下町は、家康が手がけた最後の都市建設となる。家康の天下が定まった慶長15(1610)年に建設を開始し、大坂夏の陣を終えた、元和元(1615)年に完成する。 江戸・大坂につぐ規模を持つ天守を高々とそびえさせ、整然と碁盤の目状の直線道路で町がプランされ、武士と町民をきちんと分けて、東海道を始めとする幹線を組み込んで、

千葉正樹
3月24日読了時間: 4分


支倉常長の旅・ローマ編
ジャニコロの丘から遠望するローマ。 1615(元和元)年10月25日、支倉常長の一行はローマに入った。旅の最終目的地である。法皇の直接の命によって、仙台領での布教を行ってもらうことは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)との交易路開拓と並ぶ、二大ミッションであった。非公式ではあったが、この日、支倉は教皇パウロ五世に謁見している。 私たち夫婦は、1989(平成元)年3月26日にローマに行っている。この前の日、私たちは結婚式を挙げた。つまり新婚旅行である。古代ローマの遺跡を見たかったし、ルネサンスの美術にも触れたかった。美味しいと聴くイタリア料理にもときめいていた。かみさんが支倉常長のマンガを依頼されるのはこの二年後である。支倉の旅を追いかけてローマに行ったわけではなかったが、このときの体験は大いに参考になった。 日曜日、法皇さまの祝福を受けようと、2万人を収容するという広大なサンピエトロ広場は雑踏となっていた。 広場を見下ろす聖人たち。 1615年10月29日、支倉一行は盛大な入市式でローマ市に迎えられる。カトリックの総本山、現在のバチカン市国をなす、

千葉正樹
3月14日読了時間: 5分


支倉常長の旅・スペイン編
支倉のヨーロッパ最初の正式訪問地、スペイン・セビーリャ。その象徴、ヒラルダの塔。 私たち夫婦がはじめてスペインに行ったのは、1989(平成元)年12月から翌1月にかけて、団体旅行の旅だった。その次の年に、かみさんに支倉常長のマンガを描く話が持ち上がる。支倉一行の足跡を追う旅ではなかったが、重なるところも多く、あとあと参考になった。 支倉一行の宿泊地、セビーリャのアルカサル(王宮) アルカサルは14世紀の王、ドンペドロ1世が建て、イスラム風の装飾が見事だ。 支倉一行がスペイン、アンダルシアの中心地、セビーリャに到着したのは、1614(慶長19)年10月27日。一行の案内役、フランシスコ派の修道会士、ルイス・ソテロの出身地だ。一行は大歓迎を受けた。 宿泊したのは、アルカサルとよばれる王宮、現在のスペイン王室でも離宮となっている。14世紀のカスティーリャ王、ドン・ペドロ1世が建設した。ドン・ペドロ1世は青池保子の傑作『アルカサル―王城―』の主人公。織田信長に似ているといったらいいか、残酷王とよばれる厳しい一面とともに、近世を切り開く傑出した才を発揮した

千葉正樹
2月28日読了時間: 4分


支倉常長の旅・メキシコ編
アカプルコの港近くの公園に立つ支倉常長の銅像。仙台と石巻にある、佐藤忠良製作のブロンズ像と同じ鋳型から作られた。 1991年の7月、私たち夫婦はメキシコに行った。慶長遣欧使節、支倉六右衛門常長の足跡をたどり、その見た景色を確認するためである。 ちなみに支倉常長と表記されることの多い支倉だが、史料上確認できるのは「支倉六右衛門」であって、「常長」は「長常」であったかも知れないとされる。ここでは支倉で統一して、話を進めたい。 なぜ、支倉の旅を追うこととなったか。それは前年の暮れ、仙台の出版社、宝文堂から、その事跡をマンガ化するという企画がかみさん、真弓のもとに持ち込まれたからであった。このマンガは翌1992年4月、『ファシクラ伝―支倉常長・サムライ地球を駆ける』として結実する。「ファシクラ」とは支倉のラテン語表記をそのまま発音した場合、そうなるからである。 いまはリゾート地として繁栄するアカプルコだが、かつては太平洋交易の中心だった。 支倉の旅は太平洋横断に始まる。伊達政宗と徳川家康の共同で進められた遣欧事業は、まずメキシコに到達することを目指した。

千葉正樹
2月11日読了時間: 7分


本家という存在
1993(平成5)年2月の千葉本家。江戸時代に建設され、かつては茅葺きだった。 三男坊である父の実家は、我が家では本家と呼び、盆正月には泊まりがけで訪問するならいだった。集まった祖父母、父の兄弟である叔父叔母、いとこたちにその配偶者も合わせると、20数名に及んだ。江戸時代に建てられた本家の母屋には、布団が敷き並べられ、全員で泊まることができた。 本家という存在は、令和の時代ともなると意識から遠のいてきたが、イエ制度に支えられてきた日本社会を考える上で重要なのは言うまでもない。大学では、名作「となりのトトロ」に例をとって、本家の位置づけ、本分家関係などを説明したものだった。 今は亡き本家の叔父と叔母。叔父の座っている場所が横座で、本家の当主以外は使うことが許されなかった。 亡くなった父からは千葉の家は平家で、かつては武士であったと聴かされていた。確かに千葉氏は桓武平氏で、下総国千葉荘(現在の千葉市)を領有したことから始まったとされる。古い家であることは確かで、私が預かっている史料「畑岡村風土記御用書上」には、「代数有之百姓」として、本家の本家、すな

千葉正樹
1月19日読了時間: 5分


仙台幻夢譚Ⅲ
家庭の動画は8㎜がまだ主流だった。 仙台に帰ってきて、40年を過ぎた。1984年から85年にかけては、東京と仙台を行ったり来たりして、写真に夢中になっていた。そのころの写真を眺めてみると、時代の隔たりを感じる一方で、今につながる動きも知ることができる。バブル期の直前、就職氷河期は終わりつつあり、街は賑わいを取り戻していた。 バブル期の直前、今とは違った質の人手不足があった。 手ぶれしてしまったが半導体研究所のクリスマスイルミネーション。LEDの走りだった。 まだ光のページェントは始まっていなかった。クリスマスは雪が多かった気がする。 クリスマスというと、今は全国で街路のイルミネーションが輝く。仙台の光のページェントがその先頭に立っているが、84年当時はまだ開始されていない(始まったのは86年)。だが、その前に東北大学に隣接する半導体研究所では、イルミネーションを始めていた。うち、文字の部分だけが、当時、開発の最前線にあったLEDだった。世界の半導体の半分以上を日本が生産する、そんな時代が来ようとしていた。 小正月を繭玉で祝う習慣は生きていた。..

千葉正樹
1月9日読了時間: 4分


思い出のお正月
1994年の我が家の正月御膳。 1990年代、結婚して間もない私たち夫婦は、いっしょうけんめいお正月してた。母もまだ元気で、伝統的な正月料理を主としてつくり、かみさんは洋風の料理をプラス。食卓はすばらしく豪華になった。 仙台のお雑煮は、尾頭付きの焼ハゼでだしを取り、それも入れて、さらにイクラを飾り付ける。焼ハゼは現在の雄勝町(当時は石巻市に合併する前だった)の長面湾でつくられたものが最高で、お椀をはみ出る大きさだった。東日本大震災で長面湾は大きい被害を受けて、今は手に入れることが難しくなった。 初詣は仙台、大崎八幡宮に行くのがならいだった。 元日には家族で初詣に行った。おごってタクシーを使い、境内の仮店に入り込んで、一杯やったりした。国宝の大崎八幡宮社殿はその後、大規模な修繕を行い、今に至る。震災の被害は幸いにも軽微だった。 大崎八幡宮は表から見ると桃山様式の豪奢な飾り付けが見事だが、内部には墨絵の間がある(一般公開はされていない)。それは伊達政宗の近世大名としての「表」にかくされた、室町大名としての心性を物語ると言われている。...

千葉正樹
2025年12月28日読了時間: 2分


まち研バリ島研修旅行
バリ島ではやっていた飲み物、グリンサン。ノンアルビールを少し甘くした感じ。 1984年、病気で仙台に帰った私は、フリーの地域文化プランナーとして活動後、1987年12月に有限会社まちのほこり研究室(通称まち研)を設立して、歴史民俗学系博物館の展示などを仕事とするようになる。 1992年8月には、私たち夫婦を含むまち研のスタッフ5名に、高校以来の友人で仕事仲間のOさんを加えて、バリ島へ研修旅行に出かけた。7泊(機中1泊)9日の予定であった。滞在先はプリアタン村アグン王宮内のチョコルダさんが経営する民宿スマラバワ。ビーチには見向きもせずに、ディープにバリ島文化に浸る旅となった。 夜明けのプリアタン村、アグン王宮。 バリ島の美しい棚田と水系、それを制御する寺院と思想トリヒタカラナは、現在、世界文化遺産となって、多くの観光客を惹きつけている。92年当時は世界遺産の話も出ていなかったが、私たちの旅も水をめぐるものとなった。 その後世界遺産となった棚田。 その景色を狙うOさん。 当時のバリ島はまだのんびりしたもので、世界的観光地ではあったけれども、リゾートホ

千葉正樹
2025年12月23日読了時間: 5分


チョコルダさんのこと
昼寝から覚めたらチョコルダさんがやってきた。 チョコルダさんにお世話になった日本人は多い。チョコルダさん、バリ風にいえば、チョッ・グデ・パルタ(Cok.Gde.Parta)さん。1943年、小学生のころ、第二次世界大戦で日本軍がやってきて、日本風の教育を受けた。ほんの少しだが日本語を話し、英語はかなり堪能、コミュニケーションに不自由はなかった。 いつもにこやかなチョコルダさんだが、バリ島の歴史や宗教、文化を語るときには独特の威厳を見せる。 チョコルダさんはシャトリヤ、つまり王族・士族の階層に位置する。バリ島はインドネシアでは珍しいヒンドゥー教の世界である。①ブラフマナ(聖職者)・②シャトリヤ・③バイシャ(商人・町人)・④スドラ(農民・平民)というカスタ(インドでいうカースト)があって、文化的には分けられている。 たとえばバリ語はカスタで違っていて、ブラフマナにはブラフマナの言葉がある一方、シャトリヤがブラフマナに話しかける際に使う言葉も存在するそうだ。その関係は極めて複雑で、文化人類学者でもバリ語を習得することをためらう。 一方、インドネシア語は

千葉正樹
2025年12月12日読了時間: 4分


ドイツコレクション
ミュンヘン郊外のヴィース巡礼教会。広々とした草原の中にひっそり建っていた。 ドイツは美しい。2025年5月12日(日)から21日(水)までのドイツの旅で、その豊かさと落ち着きに魅了された。今回はくどくどしい話はやめて、写真集を御覧いただこう。 車窓から臨むドイツ・アルプス。 歴史的にはいろいろと言いたいことがあるけれど、森の中でふっと姿を現すノイシュバンシュタイン城には息を呑んだ。 今回一番気に入った街はローテンブルグ。肉屋さんの看板代わりの彫像。 街の人の心遣いが偲ばれる。 明け方に。街の明かりがまだ灯っていた。 街はいくつかの門で閉ざされている。 森の中に浮かぶローテンブルグの遠景。 バンベルクの教会の光。 日本人にとって忘れてはならない場所、ポツダムの凱旋門。 ツァーの悲しさ、ワイン祭りには参加できなかった。 ベルリンの壁はアートのために準備されていたかのよう。時間は過ぎた。 シュベーリン城の教会を花々越しに。 ブレーメンは音楽隊だらけ。 時には変形したりもする。 ケルンの大聖堂では頭の中でキース・ジャレットのピアノが響いた。 トルコから来

千葉正樹
2025年11月19日読了時間: 2分


遠野イメージ
遠野は霧で迎えてくれた。 たびくまチールは釜石線で遠野に向かう。 一編の書物がまちの運命を変えた。今回、2年ぶりの旅となった遠野では、観光と都市の歴史について、いろいろと考えさせられた。ざっぱくなメモばかりだが、たくさん写真も撮ったので、ゆっくりお付き合い願いたい。 まずは柳田先生にごあいさつ。 遠野の未来を変えた書物、それはいうまでもなく柳田国男『遠野物語』である。1910(明治43)年に自費出版されたこの本は、すぐに商業出版されて読み継がれ、日本民俗学の夜明けを告げるものとなった。『遠野物語』に魅せられた研究者や文学者は次々この地を訪れ、そこに民俗学のファンも加わっていく。昭和50年代には民俗学を主軸とする日本初めての博物館、遠野市立博物館の開館もあって、遠野の旅はひとつのブームとなった。 しかしそのころは、以前、このブログでも紹介したように(項目・「遠野の『ふつう』に惹かれて」を御覧ください)、博物館以外には一棟の曲り家を移設復元した伝承園があったぐらいで、遠野ファンたちはバスや自転車、徒歩で「ふつうの田舎町」遠野を巡り歩いていた。「ふつう

千葉正樹
2025年11月7日読了時間: 6分


震災の街をいく
名取市北釜の神社。津波に流されずに残った。左手の青い標識の線まで波は到達した。 閖上の防災公園。モニュメントの一番上が津波の高さ。 名取市史の編さんをお手伝いしている。東日本大震災の津波で市域の半分が浸水した街、海沿いの一帯には史料が残されていない。手がかりは限られている。 しかし、閖上=ゆりあげと読める人は増えた。震災以前は宮城県内でも読める人は限られていただろう。閖上にボランティアのみなさんが入ったり、マスコミに取り上げられたりする中で、失われた街、閖上は地名を人口に膾炙していった。 かつての閖上の街を記憶からよみがえらせた模型。家の名前が地元の人びとの手で加えられた。 閖上は仙台城下からそれほど遠くはない。江戸時代でも日帰りが可能だった。そこは魚影が濃く、水鳥が集っていた。仙台藩の歴代藩主は御仮屋、すなわち狩遊のための施設を維持しつづけ、時には泊まりがけで、鷹狩りや漁りを楽しんだ。そこには地域の有力者も訪れ、贈答とともに地域情報が集積する場ともなったのであろう。藩主はときに政治をも行った。「御家」すなわち行政機関であった時代である。...

千葉正樹
2025年10月27日読了時間: 2分
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