印象・弘前


弘前は「津軽」の文化的焦点でありつづけている。冬は岩木おろしの吹き抜ける雪国に、積もり積もった文化の厚みは、私たちよそ者を圧倒する。
古代の史書『日本書紀』、西暦655年の条に津軽は「都加留」=ツガルとして現れる。エミシの複合的な一集団であり、南のヌシロ=能代、アギタ=秋田と時に結び、時に離反して、大和の朝廷を翻弄した。中世、津軽ではエミシの後裔と目される安東氏が、十三湊を拠点に日本海を経由する北方交易で栄えた。

戦国時代、中期まで津軽は南部氏の領地であった。だが津軽の代官であったその一族、大浦為信(後の津軽為信)が反乱を起こし、南部氏の勢力から離脱する。津軽は津軽のものという感覚が為信を支えた。為信はいち早く、秀吉に接触し、独立した大名として承認される。南部氏は怒ったが、手遅れであった。

津軽氏と南部氏の角逐は江戸時代も続く。最初3万石であった津軽氏は、江戸時代初めに4万石となり、江戸時代後期には南部に先駆けて10万石の国持大名となった。これは「高直し」と呼ばれる処置によったもので、領土が増えたわけではない。南部氏の怒りは頂点に達し、家臣のひとりが津軽氏の参勤交代行列を狙って、急襲するという事件までおこす(相馬大作事件)。
国持大名にふさわしい、拠点、弘前城の整備も進められた。最初に建設した五層の天守は落雷で焼失していたが、10万石となった直後、「御三階櫓」と称して、実質的な天守を増築する。現在も伝わるこの天守の改修が今進められている。



津軽らしいなと思ったのは、天守台の石垣を積み直すために、天守を曳家(解体せずスライド移動)したわけだが、それを元に戻すのに、市民参加のイベントを行ったことである。我らが城、我らが天守、我ら津軽の中心たる弘前、地域への愛着は他の地域では理解できないほど深い。


弘前の、あるいは津軽の風土は近現代の文化にも影響を与え続けている。太宰治、石坂洋次郎、寺山修司、棟方志功、奈良美智、輩出した文化人の「仕事」は私たちの魂を揺さぶる。


弘前のすごさは、懐の深さにもある。かつての酒蔵を改修して作られた、弘前れんが倉庫美術館は現代アートの拠点である。訪ねたとき、ちょうど「風間サチコ展」を行っていた。「方丈ルームの千里眼」という副題にあるように、風間サチコは四畳半大の部屋になかに妄想を育てる画家である。風間のモノクロの絵画と版画は、現代の本質を告発する。真っ黒な日の丸の作品には驚いた。現代の街並みは妄想のなか変形し、最終戦争を戦う。津軽出身ではないのにもかかわらず、棟方志功の反骨に通じるものがあった。市立の美術館でその展示を許す津軽の文化的風土があった。






一方、津軽出身の奈良美智の作品は優しい。ちょっと怒っているような女の子の絵が知られているが、ここでみると、それは怒りではなく、問いかけ、そうNHKのチコちゃんのような、無垢の目に見える。実物大?のロック喫茶を再現した作品には、閉じ込められた時代への深いまなざしを感じた。

青森県は大変だ。西に津軽、東に南部を抱えて、文化的な拠点がいくつもある。津軽に弘前・青森・五所川原があれば、南部には八戸・十和田がある。対抗し合い、高め合うその魅力に、同じ東北人として、なんだかジェラシーらしきものを感じた。



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