まち研バリ島研修旅行
- 千葉正樹

- 2025年12月23日
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1984年、病気で仙台に帰った私は、フリーの地域文化プランナーとして活動後、1987年12月に有限会社まちのほこり研究室(通称まち研)を設立して、歴史民俗学系博物館の展示などを仕事とするようになる。
1992年8月には、私たち夫婦を含むまち研のスタッフ5名に、高校以来の友人で仕事仲間のOさんを加えて、バリ島へ研修旅行に出かけた。7泊(機中1泊)9日の予定であった。滞在先はプリアタン村アグン王宮内のチョコルダさんが経営する民宿スマラバワ。ビーチには見向きもせずに、ディープにバリ島文化に浸る旅となった。

バリ島の美しい棚田と水系、それを制御する寺院と思想トリヒタカラナは、現在、世界文化遺産となって、多くの観光客を惹きつけている。92年当時は世界遺産の話も出ていなかったが、私たちの旅も水をめぐるものとなった。


当時のバリ島はまだのんびりしたもので、世界的観光地ではあったけれども、リゾートホテルは海の近くに限られていた。プリアタン村周辺は裏道はまだ舗装されておらず、表通りにもニワトリや、ときには放し飼いのブタまでも出没していた。



バリ島の暮らしを語る上で、水との関わりは見逃せない。最高地にある火山性の湖を第一の水源に、バリ島全土に張りめぐらされた精緻な水系とそれを支える宗教と祭りは、バリの骨格である。







現在、バリ島では世界遺産の精神を守るために、さまざまな規制を観光客にも要求している。たとえばパケアンアダット、つまりバリ島の伝統衣装に身を包んでいなければ、寺院には入れないし、祭り、とくに葬祭への参加は不可能である。
私たちが行った当時、それはまだゆるく、比較的自由になんでも見て回れた。写真も自由に撮れた。いずれこのときに出会った、火葬の様子も紹介しようと思う。



バリ島の文化は深く、強い。その特異性がまた、空間的、時間的な差違を外国人に感じさせるので、現在、観光化されてなお、文化的パワーは強化されている。ただ、バリ人の暮らしは変わった。観光化に伴う交通渋滞は日常化して、モーターバイクを手放せなくなったバリの人びとは、祭り以外にはサルン(腰布)姿となることもなくなった。研修旅行の当時はその境目に位置していたかも知れない。のんびりと街路で闘鶏用のニワトリを愛でる男たちの姿があった。


バリ島の暮らしに市場は欠かせない。県単位、郡単位、村単位に階層をなした市場が開かれ、ほぼ何でも手に入る。市場はまた、宗教的な場でもある。聖別された空間であるからこそ、モノの交換が可能となる。それは日本中世にも見られた。






研修の夜はさまざまなパフォーマンスを楽しんだ。ガムラン、ケチャ、バリ島でも最高とされる芸能がプリアタン村にはある。特にケチャは、地域共同体=バンジャールのひとつ、バンジャール・テガーが支える楽団、スマラマディアが毎週公演しており、なによりの「ごちそう」となった。



さて、研修旅行は当初の目的としては成功であった。十分に勉強し、楽しみ、美味しいものを頂戴した。
問題は帰りに発生した。このときはコンチネンタル航空の仙台・グアム便を用い、乗り換えてバリ島に到達するという行程だった。ところがグアム近海で大型の台風が発生し、グアムの空港が風水害で使えなくなるという事態が発生、私たちは足止めされた。
民宿スマラバワも次のお客さんが入るので出なくてはならない。チョコルダさんが近所に掛け合い、新たな民宿、ワルティニを紹介してくれた。ただ、滞在費が心配になる。遠出はやめて、空港の再開を待った。

結局、コンチネンタル航空の再開が遅れたため、ガルーダインドネシア航空の成田便を手配し、スケジュールが大変なOさん、ついで私たち夫妻が帰ることとなる。若い3人のスタッフには、手持ちの現地通貨を全部渡し、グアム経由便の再開を待ってもらった。さいわいに3日ほど遅れて、全員戻ってきた。行きはよいよい、帰りは怖い、バリ島研修旅行であった。




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