チョコルダさんのこと
- 千葉正樹

- 4 日前
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チョコルダさんにお世話になった日本人は多い。チョコルダさん、バリ風にいえば、チョッ・グデ・パルタ(Cok.Gde.Parta)さん。1943年、小学生のころ、第二次世界大戦で日本軍がやってきて、日本風の教育を受けた。ほんの少しだが日本語を話し、英語はかなり堪能、コミュニケーションに不自由はなかった。

チョコルダさんはシャトリヤ、つまり王族・士族の階層に位置する。バリ島はインドネシアでは珍しいヒンドゥー教の世界である。①ブラフマナ(聖職者)・②シャトリヤ・③バイシャ(商人・町人)・④スドラ(農民・平民)というカスタ(インドでいうカースト)があって、文化的には分けられている。
たとえばバリ語はカスタで違っていて、ブラフマナにはブラフマナの言葉がある一方、シャトリヤがブラフマナに話しかける際に使う言葉も存在するそうだ。その関係は極めて複雑で、文化人類学者でもバリ語を習得することをためらう。
一方、インドネシア語はバハサ・パサール=市場言葉という言い方があるように、インドネシア地域の国際言語として、人工的に形成された側面がある。階層性はなく(丁寧語はあるが)、どんな人ともふつうに話せる。

チョコルダさんはバリ文化を理解してもらうことに熱心であった。私のおぼつかない英語にインドネシア語、それにわずかな日本語を交えて、バリ島の文化や社会、政治、宗教など、何でも話してくださった。
居宅はスマラ・バワという民宿を経営していて、私たちはいつもそこに滞在していた。年1,2回、20年をかなり超すお付き合いである。2009年3月にお亡くなりになった際には、5月に行われた葬儀にも参列した。私たちにとってはバリ島のお父さんのような存在であった。

このとき、1995年12月12日(火)にお話しいただいたことが私のフィールドノートに残っている。
まず、王族としてのチョコルダ家の系譜である。クルンクンにバリ島を七つ(時期的に数が変わる)に分ける王国のひとつがあり、その分家がスカワティに王宮を構えた。そこから、チョコルダさんが住むプリアタン村に分家したのが1765年、さらに1785年にはプリアタン村の領主は長男が継ぎ、次男がウブド村に移って、そちらでもプリ(王宮)を構えたのだという。
現在、ウブドの都市化が進んで、そちらが中心のようになっているが、王族の系譜としてはプリアタンが本家であり、また、プリアタンのチョコルダ家はスカワティの王族の祭りにも必ず参加するということであった。

また、地域共同体=バンジャールと村落=デサ、そして芸能集団との関係についてもレクチャーしてくれた。この頃私はバリ島の芸能に夢中だったので、知識を補ってくださったのだろう。
大まかに述べると、行政区としてのプリアタン村はタガス・カンギナンとプリアタンという、ふたつの慣習村=デサ・アダットから成り立っている。デサ・タガス・カンギナンのバンジャールはタガス・カンギナンひとつであり、その芸能集団がグヌン・ジャティを名乗っている。プリアタン慣習村のバンジャールはいくつかあり、うちバンジャール・タガス・カナンの芸能集団がスマラ・ジャティ、バンジャール・テガーの芸能集団が、芸能山城組がケチャを師事するスマラ・マドゥヤということになる。
有名なグヌン・サリはプリアタン慣習村全体に背景を持つ芸能の協同体、同じく有名で日本人のファンが多いティルタ・サリは、チョコルダ家から分かれたマンダラ家が家として所有するプライベート・グループだそうな。
バンジャールとデサアダットが一体であるタガス・カンギナンは特別な地域で、バリ島の村落にふつうにあるカヤンガンティガと呼ばれる三つのヒンドゥー寺院(ティガとは3のこと)が、一つに統合されて村の中心にあるなど、バリ村落の古形態を保っているという。ここのガムランは珍しいスマル・プグリンガンで、黄金が混ぜてあると言い伝えられている。

ほかにも面白いお話をいっぱいしてくれたが、今日はこれぐらいにしておこう。今後もバリ島について述べることは多いだろう。その背後にチョコルダさんを感じていただければ、と思う。


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