モノクロームのバリ島
- 千葉正樹

- 10月18日
- 読了時間: 4分

花々に群れ飛ぶ蝶と鳥たち、壮麗な夕焼け、果物、極彩色に彩られた祭りの庭、バリ島は色彩にあふれている。だがなぜかこのとき、1995年12月、私はすでに馴染み始めていたポジフィルムではなく、モノクロのネガフィルムを持って、バリ島に行った。


バリ島から帰ってきたらすぐにかみさんは手術を受けることとなっていた。私は修論の提出があった。そんなとき、どうしてもバリ島に行きたくなったのだった。白黒の世界にバリ島とかみさんへの思いを焼き付けたかった。


実質的にこれが最後のモノクローム撮影となる。博物館の展示設計や地域活性化のプランニングという仕事と、大学の研究発表にはスライドが欠かせなかった。私は次第にポジフィルム主体で撮影するようになっていた。


白黒の世界で「色」を感じてもらえるかどうか。最後に挑戦してみたいというのもあった。成功したとは言えないが、モノクロームのバリ島は何か、訴えかけるものがある。
今、バリ島もオーバーツーリズムの最中にある。渋滞は果てしなく、外国人専用と思えるレストランやショップが建ち並ぶ。だがこのとき、今、2025年から30年前は、まだまだのんびりしたものであった。このブログでは、この時と場を基点として、観光と都市化を考えていきたい。


特にこの年はインドネシア独立50周年にあたる。日本の敗戦から2日後、8月17日にインドネシア共和国の独立が宣言された。当時、日本の占領下において日本化の進んでいた中で、年号は西暦ではなく、日本紀元が使われた。すなわち「皇紀2605年」インドネシアは新たな歩みを始めた。ちなみにインドネシア国旗は赤と白という日の丸と同じ色を使っている。
50周年を迎え、バリ島ではヌサドゥア地域の開発を軸とする、ビッグプロジェクトが次々に導入されていくこととなる。そのとき、昭和30年代の日本にも似た、ノスタルジーにあふれた景色が変えられていくこととなる。その変化の始まりの直前を、このモノクロームのフィルムが切り取っていた。


私が最初にバリ島に行ったのは、1986年の8月である。29歳だった。芸能山城組の第1回バリ島合宿に参加した。そのころ、宿泊地となったウブド村やプリアタン村には電気が普及しておらず、宿の明かりはオイルランプだった。

道路は未舗装のところが多く、それは1995年も変わらなかった。道の両側の側溝にはきれいな水が流れ、そこでマンディ(沐浴)するバリ島の人びともいた。側溝と家の塀の間は、細い庭のような空間があり、椰子の木をはじめとするさまざまな木が木影をつくってくれる。その隙間には放し飼いの鶏や豚たちが、地面に配された、地霊へのお供物をあさっていた。
現在、側溝はすべて暗渠化して、庭空間はなくなり、申し訳のように細い並木が植えられている。舗装された道路には観光客を乗せたバスやタクシー、観光施設への通勤を急ぐバリ島民のバイクがあふれている。
人類の歴史は都市化史として描くことが可能である。ここバリ島で起きている都市化は、観光に後押しされて、極めて急速であった。
その結果、たとえばレコードが普及する前にカセットテープが普及するなど、文化のある部分をスキップするような現象も見られる。その意味を考えつつ、バリ島の都市化を追いかけていきたい。



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