本家という存在
- 千葉正樹

- 1月19日
- 読了時間: 5分

三男坊である父の実家は、我が家では本家と呼び、盆正月には泊まりがけで訪問するならいだった。集まった祖父母、父の兄弟である叔父叔母、いとこたちにその配偶者も合わせると、20数名に及んだ。江戸時代に建てられた本家の母屋には、布団が敷き並べられ、全員で泊まることができた。
本家という存在は、令和の時代ともなると意識から遠のいてきたが、イエ制度に支えられてきた日本社会を考える上で重要なのは言うまでもない。大学では、名作「となりのトトロ」に例をとって、本家の位置づけ、本分家関係などを説明したものだった。

亡くなった父からは千葉の家は平家で、かつては武士であったと聴かされていた。確かに千葉氏は桓武平氏で、下総国千葉荘(現在の千葉市)を領有したことから始まったとされる。古い家であることは確かで、私が預かっている史料「畑岡村風土記御用書上」には、「代数有之百姓」として、本家の本家、すなわち大本家が記載されている。肝煎(名主・庄屋の仙台藩における呼称)を務めたこともあったらしい。
武士であったかどうかは定かではない。近世の村方では、正式な書類には書かれないものの、ほとんどの家は名字を持っていたと考えられている。我が家の紋所は「丸に三柏」でこれは同じ桓武平氏の葛西氏の持ち紋である。秀吉の奥羽仕置で、葛西氏は廃絶し、親族を含む家臣団の多くは帰農した。その中で有力な家が肝煎に任じられたという伝承が残されている。
解釈はまだあって、入り婿説とでも言おうか、恩師の入間田宣夫先生によると、頼朝の奥州征伐に従って、この地域に入ってきた鎌倉武士団から子息を婿に迎え入れた地域有力者が見られたという。確かに旧畑岡村を含む栗原郡、宮城県北一帯に千葉を名乗る家が集中していて、奥州総奉行に任じられた葛西氏の所領と重なっている。
もう一つの解釈が、兵農が未分離であった、戦国時代の様相である。ふだん農民として暮らしている百姓も、いくさとなると武装して、出陣することが一般的であったらしい。むかし、本家には刀が何本か伝わっていたらしいが、それは武士であったからというよりも、時に武装農民=足軽として戦った過去を物語っていたのかも知れない。

いずれにしても、旧家らしく、本家にはさまざまな文化的伝統が見られた。畑岡村の鎮守が本家の裏手にあって、そこの管理にも携わっていたらしい。「風土記御用書出」によると、その鎮守は「暗闇神社」と呼ばれ、月読尊を祀っていたということである。
祭礼では「弥助囃子」という獅子舞を奉納するため、千葉家のものは代々、それを伝習してきた。料亭で行った私たちの結婚式の時、千葉一族で弥助囃子を演じていただいて、仲居さんたちを驚かせてしまった。
また、結婚儀礼はいわゆる神前式ではなく、伝えでは古小笠原流の武家儀礼で行われてきた。これも私どもの結婚式の儀礼とさせていただき、当時、本家の当主であった私の最年長のいとこが、懸命に習練して、場を仕切ってくださった。



江戸時代に建てられた家屋も、しかし近代化、あるいは現代化を経ていた。ガラスやタイルといった欧米渡りの建材の利用や、あちこちに施された、明治期に流行した意匠など、近代を経て生きてきた家屋らしい表情が見られた。
いとこの子ども(女性)は、お年頃でもあって、本来は開放的な間取りである家の一角を「占拠」して、「ルーム」と名付けていた。家の中にプライバシーが生じた、近現代らしいあり方と言えるだろう。




また、家の存続にも社会の変化が深く及んでいた。たとえば農協の存在がある。今は金融機関のようになってしまった農協だが、平成初め頃までは、生産面のみならず、農家の消費生活を全面的に支えていたのではなかったか。本家にも農協の購買伝票がたくさんにあったことを思い出す。戦後の変化の流れと言えよう。



いま、本家は新しい家屋に建て替えられ、納屋だけが往時の面影を残している。ここにあげた写真は、実は本家の解体が決まったときに、その廃材を利用させてもらうためにうかがったときのものだ。
百数十年もの間、囲炉裏の煙にくすべられた梁や柱は、乾燥しきっていて、深くまで墨色が染みついている。それを当時、進めていた宮城県大和町の歴史民俗展示施設「宮床宝蔵」の展示に利用させていただいた。展示室を入ってすぐの所にある、宮床地区の象徴的景観、七ツ森をデフォルメしたジオラマがそれである。思った通りのいい時代色をまとった展示となり、施設全体の展示と合わせて、当時の日本ディスプレイデザイン賞に入賞し、ミュージアム部門最高賞の候補ともなった。それが私の、失われた本家の母屋へのオマージュである。



コメント