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二条城に向き合う

  • 執筆者の写真: 千葉正樹
    千葉正樹
  • 10月7日
  • 読了時間: 4分
ようやく秋らしくなった。京都、二条城が青空に映える。
ようやく秋らしくなった。京都、二条城が青空に映える。

二条城は50年ぶりの訪問となる。当時、浪人中だった私は、予備校の隣にあるという理由でこのお城に行けたのだった。中学生以来の城ファンとして、「城らしい城」を半日楽しんだ。

しかし今、改めて見直すとこの城の異様さが目につく。

京都御所に向かい合う東大手門の威容。
京都御所に向かい合う東大手門の威容。

大手門は東を向き、その延長線上に京都御所=朝廷が存在した。金金具で飾られた堂々たる姿は御所に集う人びと、古来の権威を身にまとった天皇、公卿らを圧していたことだろう。それはわかる。新しい時代の権力の表現として作られた城なのだから。

ただよくその空間構成を考えてみると、少々異様なのだ。現在の皇居、江戸城の門を思い出して欲しい。幾重にも重なる門は、すべて枡形を持つ。まず、簡素な一の門をすぎても、枡形の広場に導かれ、そこから真横にある櫓門が二の門として厳然と空間を封鎖する。これは攻め寄せる敵の軍勢を枡形に押し込め、櫓門と周囲の塀の狭間から、銃と弓を連射して、殺戮するという防衛装置ゆえの構成である。

二条城はこの枡形が曖昧である。最初から飾られた櫓門に導かれ、正面は公家の屋敷に似た、版築の土塀である。枡形が見当たらない。

二条城はいわば朝廷に幕府の権力を見せつけるためだけにつくられ、したがって軍事的防衛力を二の次にした、そういう城だったのだろうか。ちなみに徳川家康により二条城が整備された年、慶長8(1603)年には、江戸城の天下普請がはじまっている。つまり、二条城と江戸城は双子のように誕生(再生)したのに、その機能に大きい差違があったこととなる。

二の丸大手から二の丸御殿を臨む。
二の丸大手から二の丸御殿を臨む。
この大屋根の下に大政奉還の場、二の丸大広間がある。
この大屋根の下に大政奉還の場、二の丸大広間がある。

二条城は徳川家康が将軍宣下を受けた場所であり、慶喜が大政奉還を告げた場所でもある。江戸時代の本格的な始まりとその終わりの場となった。

現在、江戸時代から残されている城郭の御殿建築は、ここ二条城二の丸だけだ。この大広間で最後の将軍、慶喜は大政奉還を告げたとされる。在京していた40藩の大名が居並んだそうだが、その構成、配置や服装、次第などは、実のところは不明である。現在、大広間に並んでいる人形群は、教科書にも記載されている、あまりにも有名な明治の邨田旦陵「大政奉還図」によるものだそうだ。実際は老中が伝達したという説もある。

なぜ本丸を使わなかったのか。それは本丸が大火で罹災し、再建がかなわないうちに幕末を迎えたからである。家康の将軍宣下の際の宴は本丸を使ったとされるが、当時は家光による二条城の拡張前であり、範囲としては現在の東半分、すなわち二の丸部分しかなかった。将軍宣下と大政奉還が同じ空間で行われたのは歴史の不思議な暗合である。いわば二の丸は徹頭徹尾、将軍の空間、武士権力の空間として、現在に伝わった。

二の丸の「将軍」庭園
二の丸の「将軍」庭園
堀の水面の反射光が白壁に映えていた。
堀の水面の反射光が白壁に映えていた。
本丸の西南隅にある天守台。寛延3(1750)年に落雷で焼失し、再建はされなかった。
本丸の西南隅にある天守台。寛延3(1750)年に落雷で焼失し、再建はされなかった。

本丸の性格は複雑だ。本丸を造営したのは第三代将軍の家光、その際には伏見城から五層の天守を移築したと伝えられる。天皇は行幸の際にこの天守を気に入り、二度も登ったそうだ。将軍の権力が天皇の権威を抱え込む、象徴としての空間であった。

しかし、本丸は天明8(1788)年に焼失し、近世において本格的に再建されることはなかった(慶喜により仮御殿は建てられたと伝わる)。

2024年に修理・公開されている本丸御殿は、1893(明治26)年に始まる京都御所周辺の再整備と一体で、御所の北にあった桂宮邸を移築したものである。それに先だって、1884(明治17)年には二条城は天皇の離宮、二条離宮となっていた。桂宮邸は近世・近代の公家・皇族の建築空間を伝えるもので、移築に合わせて整備された庭園と合わせ、現在の本丸とは天皇の空間として捉えた方がいいであろう。

実際に天皇や皇太子の滞在する機会も少なくなかった。特に大正天皇は二条離宮を好み、庭園で犬と散歩するなど、日常的な楽しみを味わっていたらしい。

現在の本丸御殿。二階部分は洋風らしいが非公開であった。
現在の本丸御殿。二階部分は洋風らしいが非公開であった。

天皇の権威を将軍の権力が抱え込み、その関係を外部(特に朝廷)にも見せつける空間としての近世二条城。天皇の空間として、足下にかつての将軍権力の名残を置いた近代二条離宮。そしていまここは多くの外国の方も訪れる、観光地=開かれた空間である。世界の広場といってもいい。

城と広場、あるいは塔と広場という対置は考察に値するけれども、またの機会に譲ろう(撮影は2025年10月6日)。

開場前から列を作る外国の方たち。
開場前から列を作る外国の方たち。
8千歩の見学に疲れて、やっぱりビール!朝です!小瓶です!(メジャーとなってくれるくまを連れてきていればよかった)
8千歩の見学に疲れて、やっぱりビール!朝です!小瓶です!(メジャーとなってくれるくまを連れてきていればよかった)


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