震災の街をいく
- 千葉正樹

- 11 分前
- 読了時間: 2分

名取市北釜の神社。津波に流されずに残った。左手の青い標識の線まで波は到達した。

名取市史の編さんをお手伝いしている。東日本大震災の津波で市域の半分が浸水した街、海沿いの一帯には史料が残されていない。手がかりは限られている。
しかし、閖上=ゆりあげと読める人は増えた。震災以前は宮城県内でも読める人は限られていただろう。閖上にボランティアのみなさんが入ったり、マスコミに取り上げられたりする中で、失われた街、閖上は地名を人口に膾炙していった。

閖上は仙台城下からそれほど遠くはない。江戸時代でも日帰りが可能だった。そこは魚影が濃く、水鳥が集っていた。仙台藩の歴代藩主は御仮屋、すなわち狩遊のための施設を維持しつづけ、時には泊まりがけで、鷹狩りや漁りを楽しんだ。そこには地域の有力者も訪れ、贈答とともに地域情報が集積する場ともなったのであろう。藩主はときに政治をも行った。「御家」すなわち行政機関であった時代である。
今回、『伊達治家記録』を読んでからの巡検となったので、参加者は皆、御仮屋の位置を知りたがった。

地元には言い伝えが残っている。「Wさんちが御仮屋で春秋には必ず殿様がきていた」。だが、いまそのW家はない。茫漠とした防災公園の中に、ぽつんとあるベンチのあたりらしいと当たりをつけるのが精一杯だった。

一方、10キロほど内側に入った増田宿は津波を免れた。わずかだが残る旧家の跡と、道式、敷地の形状、神社やお寺などが往事の名残をとどめている。
近代が主体とはいえ、史料も見つかりつつあり、近世のものも少数だが含まれていた。こちらではいつものような自治体編さんの手法が通じるだろう。空間史、景観史を担当することになるだろう私にとっては、古写真もありがたい。



閖上をどう描き出すか。増田地区と地区間のバランスをどうとっていくのか。しばらく悩むことになりそうだ。




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