母都市コニンブリガ
- 千葉正樹

- 9月18日
- 読了時間: 3分


ポルトガルの中北部、コインブラの近郊にローマ時代の都市遺跡、コニンブリガがある。相次ぐ異民族の侵入か飢渇か、コニンブリガの住民はこの街を捨てた。そして近くにできたのが中世都市コインブラだ。
「母都市」という言葉がある。ある都市が出現するとき、その近くに元となった都市域=母都市があることは少なくない。ポルトガル、モンサラース・レゲンゴスはその一角に街とも村とも言い難い母都市、モンサラースを持つ。仙台の東部には、断層長町・利府線にそった水の便のいいところに、母都市群があった。北から多賀城の機能を引き継いだ岩切、石巻方面への街道に位置する宿・原町、国分一族の拠点・国分、平城を中心とした北目。政宗は当初、これら母都市の機能に依存し、それらを順次新都市・仙台に移していった。

地球上、多くの地域において、歴史とは都市化として進行した。一度、都市的生活を獲得した住民は、容易にその生活様式を変えない。ひとつの都市が滅びるとき、その近くには住民たちが移動し、あるいは移動させられ、新都市が形成される。
コインブラは特に、最初は王宮都市として出発したが、その後、街の中心はポルトガル最初の大学、コインブラ大学となった。もっとも都市的なる場、それは大学である。思索の時空間は都市的な余剰の中に育まれなくてはならなかった。

と、いろいろと難しいことを考えたりもするけれども、まずは昼食だ。
初登場のダダーチャは、山形県名産の枝豆、だだちゃ豆から名付けた。チャチャイが沖縄で行方知れずとなって、悲しがったかみさんがまず家に連れてきたのがチール、そしてダダーチャだ。ふたりとも元気に今も家にいる。


王宮が開かれる、あるいは大学ができるということは、「都市の種」が撒かれたということになる。生産しない人びとを支えるために、そこは交易の中心とならざるを得ない。コインブラの中央広場は、すなわちコメルシオ広場、商業広場として市を展開していた。その思い出を引き継ぎ、秋、タマネギ祭りが開かれていた。




祭りは市民のものである。コニンブリガの時代にも祭りはあったのだろう。そこではさまざまな障壁、健常者と障害者、本国人と外国人、性別、年齢が取り払われて、まずは陽気に一体となる。大学町ではあるが、コメルシオ広場には学生と識別できる姿はなかった。




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