仙台幻夢譚Ⅲ
- 千葉正樹

- 1月9日
- 読了時間: 4分

仙台に帰ってきて、40年を過ぎた。1984年から85年にかけては、東京と仙台を行ったり来たりして、写真に夢中になっていた。そのころの写真を眺めてみると、時代の隔たりを感じる一方で、今につながる動きも知ることができる。バブル期の直前、就職氷河期は終わりつつあり、街は賑わいを取り戻していた。



クリスマスというと、今は全国で街路のイルミネーションが輝く。仙台の光のページェントがその先頭に立っているが、84年当時はまだ開始されていない(始まったのは86年)。だが、その前に東北大学に隣接する半導体研究所では、イルミネーションを始めていた。うち、文字の部分だけが、当時、開発の最前線にあったLEDだった。世界の半導体の半分以上を日本が生産する、そんな時代が来ようとしていた。



仙台の小正月には、どんと祭(松焚祭)の裸参りが欠かせない風物となっている。この頃、若い女性が白装束で参加するという新しい景色が見られた。今はふつうになっている。男女雇用機会均等法が成立した頃である。
私も88年頃から二度ほど、裸参りに参加した。企業参加が主となっている中、友達で誘い合わせて、個人参加した。裸参りを終えた者には神様が宿っている。国分町の知り合いの店に行くと、ただで一杯飲ませてくれた。20件目くらいまでは覚えているが、そのあと、東北大片平キャンパスに積もった雪で泳いでいたというのは、まったく記憶にない。


大学もずいぶん変わった。どんと祭に研究室単位で参加するという伝統があったが、今は医学部の一部だけになっているのではないか。東北大のキャンパスを埋めていた立て看板も今はない。




仙台城は青葉城という明治以来の通称で呼ばれることが多かった。さとう宗幸さんの「青葉城恋歌」は1978年にヒットしている。バスの運行経路は、「青葉城循環」だった。青葉山の山守であった家がまだ居住していた。
ふもとの国有地、かつて仙台城の馬場や片倉家の屋敷があった追廻地区には、戦後、主として外地から帰還された方たちが、あくまでも合法的に家を建て、稠密な街区をなしていた。東北大学出身でノーベル賞を受賞された、田中耕一さんもここに下宿していたと聞いている。風呂屋があり、神社があり、八百屋があり、昭和らしいコミュニティーが息づいていた。私の中学校の学区でもあって、友人が多かった。しかし、仙台市は青葉山一帯の公園化という基礎プランに導かれて、追廻の住民に立ち退きを迫った。ときには「不法占拠」という噂までも流れ、住民たちを苦しめた。令和に入って、最後の一軒が立ち退き、公園化が進められている。

仙台は、もちろん日本もこの40年で大きく変わった。どんと祭に女性が参加するようになったことに象徴されるように、いい方向に向かっていることも少なくない。だが、私は古びたのだろうか、昭和という時代を懐かしんでいる。ロック喫茶、ピーターパンの壁を埋め尽くしていた70年代から80年代のロックは、今も時折、サブスクで聴いたりしている。ああ、何か矛盾しているなとも思う。しかしそれが時代を生きているということなのかも知れない。



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