遠野イメージ
- 千葉正樹

- 11月7日
- 読了時間: 6分
更新日:11月9日


一編の書物がまちの運命を変えた。今回、2年ぶりの旅となった遠野では、観光と都市の歴史について、いろいろと考えさせられた。ざっぱくなメモばかりだが、たくさん写真も撮ったので、ゆっくりお付き合い願いたい。

遠野の未来を変えた書物、それはいうまでもなく柳田国男『遠野物語』である。1910(明治43)年に自費出版されたこの本は、すぐに商業出版されて読み継がれ、日本民俗学の夜明けを告げるものとなった。『遠野物語』に魅せられた研究者や文学者は次々この地を訪れ、そこに民俗学のファンも加わっていく。昭和50年代には民俗学を主軸とする日本初めての博物館、遠野市立博物館の開館もあって、遠野の旅はひとつのブームとなった。
しかしそのころは、以前、このブログでも紹介したように(項目・「遠野の『ふつう』に惹かれて」を御覧ください)、博物館以外には一棟の曲り家を移設復元した伝承園があったぐらいで、遠野ファンたちはバスや自転車、徒歩で「ふつうの田舎町」遠野を巡り歩いていた。「ふつう」のなかに「物語」を嗅ぎ取ろうとしていた。



遠野は江戸時代初め、八戸から移封された遠野南部氏一万二千石の「城下町」である。城下町にカギ括弧をつけたのは、遠野南部氏は幕末で二十万石を有した盛岡南部氏の家臣であり、地方知行主としての拠点、鍋倉城は正式には遠野要害屋敷と呼ばれ、城としての格は認められていなかったからである。その家臣は、本家である盛岡南部氏からすると陪臣ということになる。
そのため、彼ら遠野南部家臣団は、明治時代になると、身分制の解体とともに設けられた新たな階層、士族としては認められなかった。平民に位置づけられたのであった。士族として自分たちを認めて欲しいという、彼らの中から湧き起こった思いは、遠野南部家の授爵運動と結びついて展開する(遠野南部家には男爵の位が与えられた)。その過程で、「士族」たちは地域の文化力を結集し、内外に発信する行動に出る。『遠野物語』の背景には、そういう事情が見え隠れしている。今につながる遠野の「文化力」に彼らの培った土壌がある。



そういう意味で遠野ははじめから「ふつう」ではない。私の務めていた尚絅学院の創始者、ブゼル先生は、尚絅を退職してからの晩年を、ここ遠野で幼児教育と布教に捧げた。欧米の文化を積極的に迎え入れる、「ふつう」ではないまちの懐の深さがあった。柳田が遠野を訪れてから十数年ほどたった頃である。
その深さは今も市民たちに受け継がれている。城下のお豆腐屋さんで味わった寄せ豆腐の一杯は、遠来の客をもてなそうとする心そのものであった。



観光は差違の産業である。ふだんの自分では得られない感覚を得られるから、人びとは観光地を訪れる。遠野の「ふつう」がただの「ふつう」ではなかったから、遠野のファン層は形成されてきた。
ただしそこには、市民と行政の大変な努力があった。今もある。
たとえば遠野市の中心部にはコンビニストアがない。スーパーマーケットが一店あるのみである。その不便さが「差違」である。街には修景が施され、新築の家屋にも黒瓦で白壁、柱をベンガラで塗ったものが少なくない。
遠野観光の源泉である差違とは、過去の「ふつう」を今に閉じ込めたところにある。いわば縦軸=時間軸の差違である。『遠野物語』を知らずに遠野に行っても、ひとびとはなぜか懐かしさを感じるだろう。歴史を感じるだろう。それが遠野の人びとが、ある意味、新しく創り上げてきたものであることも知らずに。


だが言っておこう。それは単なる演出ではない。『遠野物語』を基準点とする精神性が、大げさに言えば哲学が生きつづけている。
その精神性の中核となっている遠野市立博物館の存在を抜きに、遠野の観光は語れない。現在、刊行が続いている『新編遠野市史』は、あたらしい『遠野物語』として、もう一つの基準点を形成していくのだろう。遠野のイメージとは、その基準点からの展開としてありつづける。



気になる点を書き留めておきたい。
大好きな遠野ふるさと村の本質は何か。遠野市街地を取り巻く地域一帯から集められてきた、重文クラスの曲り家の数々は、山の谷間を上手に利用して、まさに「過去のふつうの村」の姿を見せてくれる。半日いても飽きない。電線は使ってはいるのだろうが、地中に埋められ、自動車は側道を通って、物資を運んでいる。「守り人」(まぶりっと)と名付けられたボランティアの方たちによって、かまどの火は絶えることなく、2頭の老いた馬も元気だ。
しかしそれは同時に、ふだん生きている地域から、曲り家が失われたことを意味する。1980年代までは「ふつう」に見られた、茅葺きの曲り家が点在する景色は、今はほとんど見ることができない。遠野ふるさと村は、放っておけば、改築され、失われていく曲り家の村の景色を未来に残すための場でもある。
奪い取ったわけではない。大事に大事に、そうっと地域から拾い上げてきた曲り家の数々。だがその裏で起きている伝統の喪失を見逃してはならないだろう。





同じ事はおしら様にもおきている。伝承園のオシラ堂に集められた千体を超すオシラ像は、その圧倒的な数の分だけあった旧家の伝統が失われていることと表裏一体をなす。博物館に寄贈されるオシラ像も少なくないそうだ。学芸員のみなさんは、今も小正月の行事として「オシラ遊ばせ」を行っているそうな。おしら様たちにとって、失われた家を思い起こす、大事な機会となっているのかも知れない。






卯子酉神社の動きも注目される。かつて私がモノクロ写真に収めた当時、この神社は地元でひっそりと守られていた。
いまここは縁結びのパワースポットとして、全国から人びとを集めている。神木のみならず、木から木へと張りめぐらしたツナに、鈴のひきてに、離れたところの木の枝にも、真っ赤な布に願いが書き留められ、奉納され続けている。この30年間に新しい信仰が芽吹いている。遠野は生きている。








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