名古屋は春
- 千葉正樹

- 12 時間前
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名古屋は爛漫の春であった。
今回の旅は、昨年2月に逝去された曽根原理さんのご業績を偲ぶ宗教思想史のシンポジウムに出席するため(3月22日・同朋大学)。たくさんの方がお集まりになり、曽根原さんが追求していた家康を神とした東照大権現を核とし、人が神になるという思想を追って、白熱した議論が交わされた。とても勉強になった。
さて、仙台から参加した私は前後の2泊をせざるを得なかった。おかげで以前から気になっていた名古屋城下町を、大急ぎで探索することができた。ひつまぶしにきしめんも堪能した。



名古屋城下町は、家康が手がけた最後の都市建設となる。家康の天下が定まった慶長15(1610)年に建設を開始し、大坂夏の陣を終えた、元和元(1615)年に完成する。
江戸・大坂につぐ規模を持つ天守を高々とそびえさせ、整然と碁盤の目状の直線道路で町がプランされ、武士と町民をきちんと分けて、東海道を始めとする幹線を組み込んで、徳川の城下町作りの完成形といっていい姿を見せている。
「尾張名古屋は城でもつ」といわれるように、名古屋城は都市のシンボルである。今も市民の関心は高く、本丸表御殿の本格的な木造再建を終え(2018年)、戦災から復興したコンクリート製の天守を木造で建て替えようという計画も進んでいる。
もっとも、有名な金のしゃちほこを乗せた天守は、意外なほど街の中からは見えなかった。今の高層ビルのせいもあるが、江戸時代でも稠密な町人地からは見えたかどうか。城近くに住む大身の家臣はその生活の中で目にしていたかもしれないが、このあたりは検討の余地がありそうである。



名古屋のみなさんの歴史への関心は、江戸時代から続く街並み、四間道(しけみち)の保存と継承に現れている。名古屋城からも近いので、機会があればぜひ訪ねて欲しい。
四間道とは、元禄13(1700)年の大火の後、延焼を防ぐという意義をこめて、道幅を4間=約7.2メートルに広げたことに由来する。東の堀川に沿って石垣が築かれ、その上には土蔵が建ち並んで、流通と防災のラインを形成した。一転して西側は町屋の世界である。今も木造の家屋群のなかを路地が走り、小さな神様・仏様が祀られていて、私のような昭和者にとっては懐かしさを感じさせる空間になっている。


名古屋の武家文化を感じるには徳川美術館がいい。尾張徳川家が所蔵する調度や美術品を譲り受けて、豪奢な大大名の生活を伝えている。戦災で焼け残った重臣の屋敷が正門となり、奥には日本庭園が造られている。
徳川家の旧蔵書を中心に、古典籍約12万点を所蔵・公開している蓬左文庫(ほうさぶんこ)もここにある。今回は残念ながら見ることがかなわなかったが、2千点を超える絵図類は歴史地理研究には欠かせないものとなっている。


最終日には熱田神宮を参拝した。今も人びとの崇敬を集めているが、歴史的にも地域の信仰の中心であった。有名なのは『信長公記』にも記されている、織田信長の、桶狭間の決戦を前にした必勝祈願であろう。三種の神器のひとつ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)をご神体として、また、武神素戔嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀るという性格からも、ここは「武」の祈りの場であり続けた。
そのためだろう、尾張徳川家を初めとする有力な大名や武士たちは、ここに刀剣類を寄進している。宝物館の新館、草薙館ではその一部を常時展示している。
なんと今回は「村正」のコレクション展を行っていた。徳川家の命運に関わってきたという妖刀村正をまじまじとみることができた。激しく乱れる波紋に、作り手の情念がこめられていて、大変な迫力であった。



都市史的に重要なのは、熱田神宮に接して、中近世には湊が存在していたことである。名古屋城は都市の北辺に位置していて、そこから真南にたどると、熱田の港に行き着く。そのルートは途中で東海道と交わっていた。つまり名古屋城下町は水陸交通の拠点、交差点という性格を併せ持っていた。神宮は湊を守る存在でもあった。今は海は遙か彼方に行ってしまったが。現代都市名古屋に隠された、伝統都市としての骨格がもう少し浮かび上がるといいなと思いつつ、旅を終えた。



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