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支倉常長の旅・スペイン編

  • 執筆者の写真: 千葉正樹
    千葉正樹
  • 4 日前
  • 読了時間: 4分
支倉のヨーロッパ最初の正式訪問地、スペイン・セビーリャ。その象徴、ヒラルダの塔。
支倉のヨーロッパ最初の正式訪問地、スペイン・セビーリャ。その象徴、ヒラルダの塔。

私たち夫婦がはじめてスペインに行ったのは、1989(平成元)年12月から翌1月にかけて、団体旅行の旅だった。その次の年に、かみさんに支倉常長のマンガを描く話が持ち上がる。支倉一行の足跡を追う旅ではなかったが、重なるところも多く、あとあと参考になった。

支倉一行の宿泊地、セビーリャのアルカサル(王宮)
支倉一行の宿泊地、セビーリャのアルカサル(王宮)
アルカサルは14世紀の王、ドンペドロ1世が建て、イスラム風の装飾が見事だ。
アルカサルは14世紀の王、ドンペドロ1世が建て、イスラム風の装飾が見事だ。

支倉一行がスペイン、アンダルシアの中心地、セビーリャに到着したのは、1614(慶長19)年10月27日。一行の案内役、フランシスコ派の修道会士、ルイス・ソテロの出身地だ。一行は大歓迎を受けた。

宿泊したのは、アルカサルとよばれる王宮、現在のスペイン王室でも離宮となっている。14世紀のカスティーリャ王、ドン・ペドロ1世が建設した。ドン・ペドロ1世は青池保子の傑作『アルカサル―王城―』の主人公。織田信長に似ているといったらいいか、残酷王とよばれる厳しい一面とともに、近世を切り開く傑出した才を発揮した人物である。

彼はレコンキスタ(国土回復運動)で、イスラム教徒を追い払う立場にいたのだが、イスラム教には寛容で、その文化を深く愛したという。王宮はイスラム風に装飾された。

セビーリャの象徴、ヒラルダの塔はキリスト教の大聖堂の鐘楼だが、そのもとはイスラム時代のモスクである。一枚目の写真の四角く見えるところがモスク時代に作られたジグラート(イスラム教の礼拝を呼びかける塔)、上の三角の塔がキリスト教徒の奪還後に付け加えられた、風見鶏の装飾をてっぺんにもつ、鐘撞き堂だ。

この塔はさらに複雑で、土台部分はローマ時代の神殿だという。スペインの文化はローマ、イスラム、カトリックと重なっていて、その厚みが圧倒的だ。支倉たちは何を感じたろうか。

アルカサル外のカフェ前でにらめっこするワンちゃん。
アルカサル外のカフェ前でにらめっこするワンちゃん。
セビーリャはアンダルシアの中心地。周辺は「白い村」になっている。
セビーリャはアンダルシアの中心地。周辺は「白い村」になっている。

アンダルシアは白漆喰で塗られた建物が多い。夏の暑さを防ぐためだという。

支倉一行の上陸地に近い、コリア・デル・リオもそういった「白い村」のひとつ。ここには「ハポン」、つまり「日本」という姓をもつ方が千人以上いらっしゃる。支倉一行から別れて、コリア・デル・リオに永住した日本人がいた可能性が指摘されている。

アンダルシアには羊飼いが活躍していた。
アンダルシアには羊飼いが活躍していた。
時には車が立ち往生させられる。
時には車が立ち往生させられる。

ドン・ペドロが憧れたように、スペインを支配していたイスラム教徒たちは高い文化をもっていた。彼らの張りめぐらした水路によって、アンダルシアは豊かな実りがあったという。

だが、キリスト教徒がイスラムに取って代わってから、水路は枯れてしまった。キリスト教徒が連れてきた、たくさんの羊たちも、草木を丸裸にしてしまった。いまのアンダルシアは乾燥しきっていて、オリーブくらいしか育たない。

マドリードの王宮の広間。支倉はここで国王フェリーペ3世に謁見した。
マドリードの王宮の広間。支倉はここで国王フェリーペ3世に謁見した。
支倉たちがマドリードに最初に着いたときは、ちょうどクリスマスシーズン。
支倉たちがマドリードに最初に着いたときは、ちょうどクリスマスシーズン。

1615(慶長19)年12月20日、支倉一行は首都マドリードに到着する。雪だったという。ちょうどクリスマスの季節でもあった。スペインのクリスマスは長く、1月7日まで続く。東方の三博士が生まれたばかりのイエスに会いにやってきたという日だ。スペインの子供たちはこの日、イエスの故事に習って、みんなからお祝いのプレゼントを受けとる。

翌1月30日、首都マドリードの王宮で、支倉常長はスペイン国王フェリーペ3世に謁見した。2月17日には国王を始め、王族、貴族らも出席して、洗礼を受けている。支倉の旅の中で一つの頂点であった。

マドリードのスペイン広場に建つドン・キホーテの銅像。
マドリードのスペイン広場に建つドン・キホーテの銅像。

だが、当時のスペインは長年続くプロテスタントとの抗争の中で、戦費を使い果たし、財政が苦しくなっていた。アメリカ大陸から送られてくる大量の金銀も、イギリス、オランダの海賊たちの活動もあって、もはや当てにはならない。

1588年にアルマダの海戦でイギリスに敗れてから、スペインは明らかに国の力を失いつつあった。1605年に出版された、『ドン・キホーテ』は、かつてスペインを強国に押し上げていた騎士たちの生き様をからかうものとなっている。この本はよく売れ、1615年には後編が出ている。フェリーペ3世は政治に興味を示さず、王国の運営はレルマ公に任せきっていた。スペインは凋落していた。

支倉常長を派遣した理由として、伊達政宗が天下取りの野望をまだ抱いており、その援軍として、大国スペインに期待したからだという説があった。だが、それをかなえる力はスペインにはなかった。また、なによりも、この使節は政宗と徳川家康が共同で派遣しているという点が重要だろう。支倉常長の傍らにはつねに家康の部下がいた。

支倉常長がフェリーペ3世に謁見してから5ヶ月後、大坂夏の陣で豊臣家は滅び、徳川の覇権が完成するのである。


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