支倉常長の旅・メキシコ編
- 千葉正樹

- 32 分前
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1991年の7月、私たち夫婦はメキシコに行った。慶長遣欧使節、支倉六右衛門常長の足跡をたどり、その見た景色を確認するためである。
ちなみに支倉常長と表記されることの多い支倉だが、史料上確認できるのは「支倉六右衛門」であって、「常長」は「長常」であったかも知れないとされる。ここでは支倉で統一して、話を進めたい。
なぜ、支倉の旅を追うこととなったか。それは前年の暮れ、仙台の出版社、宝文堂から、その事跡をマンガ化するという企画がかみさん、真弓のもとに持ち込まれたからであった。このマンガは翌1992年4月、『ファシクラ伝―支倉常長・サムライ地球を駆ける』として結実する。「ファシクラ」とは支倉のラテン語表記をそのまま発音した場合、そうなるからである。

支倉の旅は太平洋横断に始まる。伊達政宗と徳川家康の共同で進められた遣欧事業は、まずメキシコに到達することを目指した。仙台領石巻湾の月浦を出航した、日本製の西洋式帆船、サンファンバウティスタ号は、1614年1月25日、メキシコ、当時のヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)、アカプルコの港に到着した。出港以来、90日の船旅であった。

日本以外で支倉の旅を常時紹介しているのは、アカプルコの博物館だけだろう。当時アカプルコはスペインのアジア交易の拠点であった。と同時に、当時世界の海で覇権を争っていた、イギリスとの角逐の最前線でもあった。イギリス船(海賊船とされた)によるアカプルコ襲撃は続き、防御のための要塞は拡充を続けていた。支倉は緊迫する世界情勢のただ中を旅することとなった。



メキシコは猛暑の海岸よりも涼しい内陸の高原に居住地が広がっている。支倉の旅は、高原を縫う川筋をたどって、ヌエバ・エスパーニャの首都シウダッド・デル・メヒコ(メキシコシティ)を目指す。
3千メートルを超す峠越えは厳しい。私たちはタクシーを利用したが、峠越えの時に異常な睡魔に襲われた。

メキシコはかつて、後にインディオスと呼ばれるようになる先住民たちが巨大なアステカ帝国を築いていたところである。1521年、そこを鉄砲・甲冑・馬で武装した、わずか数百人のスペイン人が襲った。その指導者がエルナン・コルテスである。持ち込まれた天然痘の猛威もあって、すぐに帝国は瓦解、スペインの占領下に置かれた。
当時、ヨーロッパは宗教改革と反宗教改革の勢力争いのただ中でもある。アステカを占領したスペインは、先住民にキリスト教のうち、カトリックへの改宗を強制した。反宗教改革の背骨を作るためでもあった。


アジアにも進出したスペインは、フィリピンをメキシコ同様の戦略でもって支配下に置き、北上して日本に圧力をかけていた。このあたりの動きは平川新『戦国日本と大航海時代』に詳しい。
カトリックの布教を伴うスペインの動きを警戒した豊臣秀吉は、キリスト教の禁教政策を打ち出す。1597年、長崎において、スペイン人宣教師や日本人信徒、26名が禁教に違反したという罪でもって、磔刑に処される。彼らはカトリック世界においては聖人としてあがめられ、メキシコ、クエルナバカの教会には殉教の壁画が描かれた。支倉はちょうどそこを通っている。ミッションの厳しさは明らかであった。



ヌエバ・エスパーニャの首都、シウダッド・デル・メヒコ(「メキシコの都市」の意、すなわちメキシコシティ)は、アステカ帝国の首都、テノチティトランを徹底的に改造し、その石材を利用して作り上げたところである。中心にある広場はソカロと呼ばれる。これは靴の敷皮を意味し、転じて物事の基盤を表す。かつてこの場所にはアステカの宗教的中心としてピラミッドが高々とそびえていたが、それに変えて「基盤広場」が整備されたのである。ヨーロッパ文明における中央、中心の表象は広場でなくてはならなかった。

ソカロには大聖堂があり、付随して先住民専用の洗礼堂がある。しかし、支倉に従って太平洋を渡った日本人たちは、スペイン貴族の洗礼施設である、サンフランシスコ教会で受洗した。先住民と区分する取り扱いである。
ソカロはいまもメキシコの中心である。かつてのヌエバ・エスパーニャ副王宮殿はメキシコ大統領府となり、先住民の特性が強い人びとが、観光客に土産を売るために集まっている。メキシコ国家は、その基盤はアステカ文明であると公式に表明し、先住民主体の歴史を教育している。


支倉の旅は続く。秀峰ポポカテペトルを望む高原を横断し、大西洋岸へと向かった。一帯はアステカの血を引く先住民の世界である。遠くアジアに発祥したメキシコ先住民の風貌は日本人にも似る。支倉は何を感じたのか。


チョルーラという小都市に行った。支倉一行が立ち寄ったところである。そこかしこに緑の丘があり、格子状に整備された街路が、農地にまで延びている。まるで都市創生のさなかのようだ。しかし格子状に直線に引かれた道は、スペイン統治時代のものである。スペインは旧アステカの各地に、スペイン風の計画都市を造ろうとした。ソカロ=中央広場と格子状街路、教会がその主要装置であった。

チョルーラはかつて、アステカ帝国の宗教的中心であったと考えられている。したがって、その装置であるピラミッドが多かった。スペイン人たちはそれをすべて崩すことはできず、緑で覆って、頂上に教会を建てていった。こうして無数の教会がチョルーラに配置されることとなった。
後にまたレポートしたいが、1991年7月17日、チョルーラに皆既日食帯が通った。私たちはまさにその現場にいたのである。教会のある旧ピラミッド周りには、アステカ時代の意匠に身を包んだメキシコの人びとが集まり、シンセサイザーの音楽(何故か日本の喜多郎)が流れ、詩が朗読されていた。太陽信仰があったアステカの過去が、現在によみがえっているようであった。

メキシカンプロレスでは、覆面のレスラーが正義であり、素面の悪役に立ち向かう。そしてその多くが勝利で終わる。これはスペインのアステカ制服に抵抗した人びとが、ジャガーなどの毛皮で頭からすっぽりと身を包んでいたことに由来するという。それは先住民の誇りとして現在にも伝わる。支倉は先住民たちの思いをどのように受け止めたのだろうか。

メキシコはいまもカトリックの信仰が盛んである。その中心となっているのが、首都郊外のグアダルーペ教会だ。ここにはアステカ風の布地に「焼き付いた」マリアの像があり、人びとの篤い信仰を集めている。スペイン統治下の昔、キリスト教に改宗したある先住民のマントに、マリアが降臨し、その姿を残したそうな。そのマリアの絵姿は、先住民そのものである。
キリスト教の布教をも使命としていた支倉にとって、先住民の姿をしたマリア像は何らかの示唆を与えたかも知れない。
宮城県南端部の丸森町域には、17世紀初頭、製鉄の場があり、そのリーダーがキリスト教徒である武士、東海林備後であったとつたわっている。その妻の名は「かてりーな」。かてりーなの大事にしていたマリア像は観音像でもあり、マリア観音として知られていた。キリスト教、中でもカトリックの土着化の中で、マリアは姿を変えていく。



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