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帝国首都の広場

  • 執筆者の写真: 千葉正樹
    千葉正樹
  • 3 日前
  • 読了時間: 5分
皇帝の居た宮殿は圧倒的なボリュームを持っている。
皇帝の居た宮殿は圧倒的なボリュームを持っている。

「帝国」というとどのようなイメージだろうか。『スターウォーズ』のダース・ベイダー卿にデススター、19世紀、日の没することのなかったイギリス帝国、日本も周辺に兵を進めて大日本帝国と称した。力任せに人びとを圧倒する、怖い存在、それが帝国かもしれない。

帝国とは、難しくいえば、複数の民族・王国・領邦を支配する、上位の権力態を意味する。その首都はどのような特徴を持つのか、特にそこの広場はどうであったのか。今回はハプスブルク帝国の首都、ウィーンを眺めながら、一方的に批判するのではなく、少し距離を取って、帝国というものを考えてみたい。

宮廷広場のマリア・テレジア像。
宮廷広場のマリア・テレジア像。
帝宮の傍らから現れたローマ時代の遺跡。
帝宮の傍らから現れたローマ時代の遺跡。

ウィーンはローマ帝国軍の宿営都市としてつくられた、ヴィンドボナがその出発点になっている。最初から帝国の都市であった。

ハプスブルク家がここに拠点を置いたのが13世紀、それ以来第一次世界大戦の終わる1918年まで、途中いくつかの断絶はありながらも、帝国の首都であり続けた。神聖ローマ帝国からオーストリア帝国へ、そしてオーストリア=ハンガリー二重帝国へ、七百年に及ぶその歴史は大変複雑だ。

ここではその長い帝国の歴史が、街に何を刻んできたのかをおもに見ていこう。

帝国首都の広場には黄金が似合う。
帝国首都の広場には黄金が似合う。
ベルヴェデーレ宮は皇帝ではなく、臣下プリンツ・オイゲン公の夏の離宮。
ベルヴェデーレ宮は皇帝ではなく、臣下プリンツ・オイゲン公の夏の離宮。

帝国らしさは、その下に多数の王族や貴族が、それぞれある程度の独立性を持って、存在している点に表れる。首都には、皇帝のみならず、服属する王侯たちの宮殿が建てられ、それぞれがまわりに都市化現象を及ぼした。難しくいえば、「複核都市」であること、それが帝国首都らしさの根底にある。

王侯たちの宮殿は一つとは限らない。夏専用の離宮を持つことが許される場合も少なくなかった。クリムトのコレクションで知られる、ベルヴェデーレ宮もそのひとつ、トルコによるウィーン包囲から帝国を守った、将軍プリンツ・オイゲン公の夏の宮殿である。

江戸と似ているなと思う。大名たちの屋敷は上・中・下と展開した。大名の休息の場である下屋敷はひとつだけではなかった。仙台藩の場合はさらに米を売りさばくための広大な蔵屋敷を持っていた。

ベルヴェデーレ宮の庭は広大。遠くに聖シュテファン寺院の尖塔が見える。
ベルヴェデーレ宮の庭は広大。遠くに聖シュテファン寺院の尖塔が見える。
その一角を飾る花たち。
その一角を飾る花たち。
	ベルヴェデーレ宮にはクリムトのコレクションが公開されている。
ベルヴェデーレ宮にはクリムトのコレクションが公開されている。

皇帝を取り巻く王侯たちの華やかな生活は、帝国首都に文化を育んだ。ウィーンには画家や音楽家たちが集められ、皇帝と王侯たちの交遊と生活に彩りを添えた。クラシック音楽のひとつの頂点に立った、モーツァルトもその一人だ。

最初は王侯貴族のものであった首都の文化は、やがてそこに住む人びとも享受するようになり、現在にいたる太い流れを作っている。

今回、オペラ座で出会ったのは、夜の公演の立ち見席をとろうと並ぶ、ウィーン市民の長い行列だった。何でもその夜から新解釈のカルメンが上演されるので、それをぜひ鑑賞したいのだという。歌舞伎の見巧者とも似た、「オペラを観るプロ」が育っていた。

オペラ座の裏手には夜の立ち見席を求めるファンたちが列を作っていた。
オペラ座の裏手には夜の立ち見席を求めるファンたちが列を作っていた。
モーツァルト広場の花のト音記号。
モーツァルト広場の花のト音記号。
モーツァルト像に群がって記念撮影。
モーツァルト像に群がって記念撮影。
チールも。そういえばここは「男はつらいよ・寅次郎心の旅路」のロケ現場だった。
チールも。そういえばここは「男はつらいよ・寅次郎心の旅路」のロケ現場だった。

美術の世界にもウィーンはいまだ君臨しているといっていい。ベルヴェデーレ宮にはクリムトやエゴン・シーレの十九世紀末の美術品が収集され、かつては皇宮の一部、帝室博物館であった美術史博物館のコレクションを抜きにブリューゲルを語ることはできない。

ブリューゲルの絵画を通して、私たちは近世ヨーロッパ、16~17世紀に生きていたふつうの人たちの息吹を感じ取ることができる。帝国は民衆の生きる姿をもコレクションしたのである。

だが、美術史博物館の面する皇宮広場は、観光客の姿をのぞけば、寂寞感のただようところであった。人びとの憩うベンチすらない。中央のマリア・テレジア女帝の銅像が、皇帝の孤独を象徴しているように見えた。もちろん露店のような営業施設はなく、飲食する人も居ない。

そう、日本の皇居前広場と似ている。民衆から遠ざけられた、皇帝という存在だけがクローズアップされる場なのだ。前に紹介した、同じオーストリア、グラーツの市役所前広場とは、全く違った広場の姿があった。


美術史博物館のブリューゲルコレクションはネーデルランドの民衆をも支配していた帝国の遺産だ。
美術史博物館のブリューゲルコレクションはネーデルランドの民衆をも支配していた帝国の遺産だ。

もちろんウィーンの市民たちが集う広場もあった。そのひとつ、、マルクト広場はかつては市場だったところ。いまは露店とカフェが建ち並び、グラーツの市役所前広場と似た、賑やかさ、風情があった。

堅苦しい皇宮広場から離れて、ほっと息をつく、そんな感じがマルクト広場にはあった。ここで食べたウィーンの郷土料理グーラッシュが忘れられないので、もう一度写真を掲載しておこう。

牛肉をトマトとパプリカで煮込んだこの料理自体が、かつてのハプスブルク帝国を象徴している。まず何より、この料理はオーストリアのお隣、ハンガリーで誕生したものである。そしてトマトとパプリカはスペインの支配下に置かれた、新大陸からもたらされた。当時のスペインは、ハプスブルク帝国の一環をなしていた。帝国首都の背景には、広大な帝国の多様な産物と文化が息づいている。

マルクト広場(市場広場)の露店街に行くとほっとした。
マルクト広場(市場広場)の露店街に行くとほっとした。
帝国を象徴する料理グーラッシュにもう一度登場してもらった。
帝国を象徴する料理グーラッシュにもう一度登場してもらった。

最後に一つだけ。ウィーンの人びとは美しかった。

ドイツ系の帝国ではあるが、それはすなわちゲルマン民族の純一性を意味してはいない。デンマークや北ドイツのような、金髪碧眼の美しさとは違う。茶色の髪と目、黒い髪と目の人びとも入り交じり、総体として美しいのである。

帝国首都には、帝室へ、あるいは王侯貴族の舘へ、帝国全土から容姿に優れた人びとが集められたのだろう。そこには多様な民族が含まれていた。

帝国は多様性のなかに統一を求めるシステムといえるだろう。帝国首都にはさまざまな起源を持つ文化的・生態的遺伝子が埋め込まれ、その世代を超えた連鎖と成熟がみられるのである。


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