政宗の戦場
- 千葉正樹

- 5月13日
- 読了時間: 5分

古戦場の草むらで思いにふけるチール。
連休明けの空いている日を利用して、福島県にある伊達政宗の古戦場をめぐってきた。かみさんの運転。かみさんは史料に基づいたマンガ『独眼竜政宗』を出している。それを参考に政宗の命運に関わった二つの戦い、人取橋(ひととりばし)合戦と、摺上原(すりあげはら)合戦のアウトラインをなぞってみたい。


天正13年11月17日(西暦1587年1月6日)、冬至を過ぎて間もない、寒風吹きすさぶ人取橋の地に政宗はいた。
現在の本宮市にあった人取橋。なんとも不気味な橋の名だが、その由来ははっきりしない。後世、戦でたくさんの死者がでたから、この名を付けたともいう。
この年の10月8日、隠居していた政宗の父、輝宗が拉致され、殺害された。その弔い合戦に乗り出した政宗に対して、佐竹・芦名・岩城・石川・白川の連合軍が立ち向かう。その数、三万。対する伊達軍は七千にすぎなかった。四倍を超す敵を相手にした、政宗の生涯でも最大の危機であった。
政宗は先に主戦場を人取橋に選んだ。東に阿武隈川、西に安達太良山に挟まれた細長い盆地状の土地である。阿武隈川には西から瀬戸川、五百川が流れ込む。阿武隈川の河岸段丘に加えて、両河川の作り出した河道がクロスした複雑な地形があった。
人取橋はいわば川と山が作り出した隘路、ここに伊達は五千の兵を向けた。対する連合軍もまた、五千の兵力しか投入できない。狭い地形は天然の城となった。ほぼ同数の軍がぶつかり合う。連合軍は迂回して、挟み撃ちにしたかったろうが、川と山がその動きを阻んだ。


だが、伊達軍にはほとんど予備兵力はない。瀬戸川に架かる小さな橋をめぐって、一歩も引けない戦いが続く。一時は政宗の乗馬が動けなくなるという危機もあったが、伊達成実の奮闘で乗り越えた。
輝宗時代からの老臣、鬼庭左月は、もはや老体に甲冑は無理と、陣羽織に黄色い頭巾姿で、軍勢を指揮したという。そこが彼の死に場所となった。江戸時代に入って、子孫の茂庭氏(鬼の字から変えた)が建てた墓が今も残されている。
最終的に伊達軍を助けたのは、冬至に近い日の早い落日であった。連合軍は戦場を去り、その夜、佐竹の陣営で異変があって、翌日には撤兵していった。
かろうじて負けなかった戦、それが人取橋合戦である。


調査を前に地ビールでくつろぐチール。
天正17(1589)年6月4日夕刻、政宗のライバル、芦名義広は手勢をまとめ、黒川城(現会津若松城)に入った。猪苗代湖北の猪苗代氏が芦名のもとを離れ、伊達軍に寝返った事に対処するためである。
だが、政宗はすでに行動に移っていた。同日午後4時、田村戦線から密かに抜け出し、手勢17騎で近道を先行、重装備の主力部隊は平坦な街道を進み、同日真夜中、猪苗代北岸の磐梯山麓に到着。
結果、芦名1万6千、伊達2万3千。政宗は一連の戦いで、はじめて数で相手を上回った。
翌5日、夜明けを待って、まず芦名軍が猪苗代城方面に動き出した。伊達の軍勢は少ないと考え、不意を突こうとした。伊達軍は猪苗代城の櫓から磐梯山麓の動きを察知、迎撃に出陣。このとき午前10時を回っている。朝から吹く西風が強まり(伊達軍にとって向かい風)、その中で両軍の先陣が摺上原で衝突した。
伊達軍は鉄砲隊2百で芦名先鋒の横から射撃を開始。芦名側の記録では、朝からの西風がこのとき東の強風に変わり、伊達が風上に。芦名の視界が悪くなった。芦名側の記録では人馬に踏み砕かれた土が硝煙と一緒に強風に舞い、伊達軍から黒い霧が吹き付けるようであったという。
芦名の将兵は政宗本陣を目指すのだが、伊達の名のある将につい一騎打ちを挑み、次第に連携を失いはじめた。東進する芦名軍の死角で伊達成実・白石宗実が磐梯山麓を西に駆ける。山裾をめぐる高さ4、5mのぐみ林を盾にして、旗を伏せ、芦名主戦力の背後に出た。芦名陣営では家中に裏切り者が出て、後ろから伊達と呼応して襲ってきたのではないかと混乱した。家臣団は大将義広の命令を拒否するにいたる。


芦名軍最大の犠牲が出たのは退却戦の最中であった。政宗は伊達の「忍者」部隊、黒脛巾組(くろはばきぐみ)に命じて、摺上原と黒川城との間にある日橋川(にっぱしがわ)の橋を落とさせる。猪苗代湖から流れ出る川は日橋川のみ。そのため夏も水量は衰えず、激流の河岸は高さ20mほどある。
政宗は「捨て首」を命じた。侍道にもとづく一対一の「合戦」をもとめる芦名に対して、伊達は損耗計算で動く「戦争」をした。芦名軍の戦死者1千5百から2千5百、このうち五分の一から三分の一が日橋川に追い落とされての死であった。
芦名義広は逃走し、六日後には政宗は芦名の本城、黒川城に入った。芦名は滅びた。50万石もの会津領を手中にした政宗の領土は、120万石に到達したという。
だがそのころ、西からは豊臣秀吉の大軍勢が、「惣無事」、平和令を旗印に東へと進んでいたのである。



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