石巻に生まれて
- 千葉正樹

- 2 日前
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石巻の通称日和山神社は、私が誕生して最初のお宮参りを済ませたところだ。両親はここで結婚式を挙げた。日和山の名の通り、かつて船乗りはここから天候を見通し、また、入港するときは「山当て」、山との角度や距離感で航路を探っていたという。
また、ここは戦国時代の城、石巻城の跡でもある。段々になった曲輪には、近代になって桜が植えられ、憩いの場所となった。



あの3.11の日、太平洋に面した石巻門脇地区の方々は、日和山の急な石段を駆け上って、避難した。しかし犠牲は大きかった。私の勤めていた大学の学生もひとり、ここで命を失っている。私が父に連れられてハゼ釣りに行った岸壁は破壊された。自転車で駈け回った通りの記憶だけが残っている。


かつて石巻城を拠点としていたのが葛西氏。文治5(1189)年、源頼朝にしたがって奥州藤原氏を攻略した葛西清重を祖とする。桓武平氏の流れで、下総国葛西御厨(いまの東京都葛飾一帯)に住んだことから葛西を名乗った。千葉一族とは縁戚関係にある。清重は藤原氏亡き後の平泉一帯の管理を任され、「奥州総奉行」と称された。所領は平泉周辺の四郡二保(保とは独立性のある特別行政区域)とそこから南に離れた牡鹿郡に及んだ。藤原氏の代から石巻には湊があって、北上川で平泉と結んでいたらしい。
葛西氏は南北朝の乱を生き延び、北上川中下流領域を支配する戦国大名となる。主城は寺池城(宮城県登米市)に置くようになったが、支城として、石巻城も重視された。いわば海と川の武士団として活動したが、天正18(1590)年の秀吉の小田原攻めの際に参陣せず、所領を没収されて、滅んだ(奥羽仕置)。
葛西氏は謎の多い一族で、系図が複数伝わっていて、その内容はかなり異なる。その謎は今も石巻の人びとのロマンを誘ってやまない。

葛西氏の一党は、大崎の遺臣とともに、秀吉の奥羽支配に反抗して一揆を起こした。葛西の当主は京都方面にいて、家の再興を願う運動を行っていたともいう。一揆の鎮圧の先頭に立ったのが伊達政宗であった。一揆が終わると、政宗は旧領をほとんど没収されて、かつて葛西・大崎の所領であった土地を与えられた。
江戸時代の大名となった政宗は、石巻の開発に着手する。その第一が支倉六右衛門の遣欧使節であり、乗船サンファンバウティスタ号は、石巻北部の月浦で建造されたという説が有力である。石巻は遠くアメリカ大陸とヨーロッパと結ぶ湊としてまず構想された。
この遣欧使節は幕府のキリスト教禁教政策によって実らなかったが、その直後、政宗は北上川の改修に乗り出す。幾筋もの川筋に分かれ、本流が見定めがたいような状態であったのを、旧北上川に一本化し(明治時代に新北上川が開かれて現在の本流はそちらに流れている)、海と川を結ぶ湊を整備した。その中心となったのが長州浪人、川村孫兵衛重吉である。


北上川流域全体が整備されたことにより、耕土は一気に増大、莫大な米の増収があった。その米を北上川とその支流を通じて川船で石巻に運び、ここで造られた海船、千石船に積み替えて、江戸に持っていくという構想がスタートした。
のちには盛岡藩や一関藩の米蔵も石巻に置かれるようになり、江戸の米の四割は北上川流域の米が占めるようになる。そのためこの米は「本石米」、すなわち標準米とされ、特に江戸の民衆を支えた。
さらに仙台藩はとくに銭を造ることを許され、石巻には銅銭と鉄銭の鋳造所、「鋳銭場」(いせんば)が置かれた。この銭は仙台藩領内に限定して使用される建前であったが、石巻と江戸を結ぶ航路の活性化にしたがって、江戸に流入し、その経済を混乱させた。江戸町奉行所はたびたび「仙台びた銭」の流通を禁止する触を出している。
近世石巻の不思議なところは、全体としての都市石巻は形成されなかったこと。右岸に沿って北から、住吉村(石巻村端郷)・石巻村・門脇村、対岸には湊村(渡波村・中世以来の湊)が、それぞれ村として維持され、その中に町場が開かれた。都市としての一体性をどうしていたのか、わからないところがある。住民は身分としては百姓のままであったが、実態としては都市民であり、仙台の商圏を補完する、商業の一大拠点をなした。

石巻は明治維新後も活発に活動した。鉄道が敷設される前は、政宗の構想であるとされた貞山運河(貞山は政宗の諡号)の完成によって、水陸の貨物運送の拠点であった。
北上川の川中島、中瀬に移築されている木造のキリスト教会堂、ハリストス正教会がある。北方、すなわちロシア方面からの文明開化の波は、ここ石巻を経由した。北上川流域に転々と建設された正教会をよりどころとして、自由民権運動が展開される。明治憲法以前に「私憲法」として構想された憲法案のひとつは、ここの正教会が拠点となった。


いま石巻は苦闘している。近代から現代に移るころ、水陸交通の拠点から漁港となり、新産業都市として工場が誘致された。県下第二の都市としての繁栄は、確かに昭和40年代までは見られた。東京直結の経済構造から、仙台よりもファッションが早いといわれた。
だがその後、沖合200海里をラインとする海の分割で漁業はかつての勢いを失い、日本の製造業全体の停滞を迎えて、新産業都市という看板も衰えた。そして3.11、東日本大震災がこの街を襲う。
石ノ森萬画館につどうすてきなキャラクターたちが、石巻のイメージを支えてくれてはいる。いまのうちに育てられるものは何か。観光を新しいバックボーンとしつつも、それと連動する生産がなければ、今後は見通せないだろう。
石巻に生まれたものとして、胸苦しさを覚えつつ、小さな旅を終えた。



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