9.11の時、ポルトガルで熱を出していた。
- 千葉正樹

- 7月15日
- 読了時間: 3分

9.11、世界が変わったあの日、私はポルトガル南部の町、エヴォラで発熱し、ホテルでひとり寝ていた。昼過ぎだろうか、食料品の買い出しに行ってくれていた妻がテレビをつけたら、ニューヨークの貿易センタービルが崩れ落ちる映像が出て、アナウンサーが興奮していた。ポルトガル語のわからない私は、そのなかでわずかに「グエラ」という単語を聞き取った。guerra、すなわち「戦争」、私は第三次世界大戦が始まったのではないかと恐怖した。妻がバルで聞き取ってきた情報で、BBCにチャンネルを切り替え、恐怖は静まったが。
妻の旅日誌には次のようにある。
「New YorkにつっこんだのはハイジャックされたUnited Airlinesのボーイング737だ。いつか世話になった気さくなおばねえさん(スチュワーデス)達のUnited Airlines。人間爆弾にされて、さぞくやしかろう。あちこちでTVをかけっぱなし」

サンジョルジョ城はこの回の旅では3回目となる。目的はポルトガルの彫刻家、ホロンの作品にもう一度会いたかったから。ホロンは一貫して、「市民」を追求しているのだと思う。ちょうどリスボン市ではホロンの野外彫刻展が開催されていて、その主会場である城には、それぞれ頭が違う市民達(頭が金槌となっている者、割られている者、血を流している者、花びらになっている者、など)が輪を作って向かい合っている。
それはホロンの名にふさわしい、個と全体の調和の空間であった。


1974年4月25日、革新派の軍人達は無血クーデターをおこし、ヨーロッパ最長の独裁制を打倒した。それはカーネーション革命と呼ばれ、ポルトガルの新たな誇りとなった。
ポルトガルはかつて、海洋帝国を築きあげていたが、18世紀に入る頃には凋落し、帝国の幻影だけが残された。リスボンの中心部、テージョ川に面したコメルシオ広場は海外の植民地と直結する、「交易の港」であり「帝国の広場」であった。今でもその中央にはかつての帝王、ドン・ジョゼⅠ世の騎馬像がたち、その視線が繁華街の中央、アウグスタ通りを貫いている。
そこにホロンの作品が置かれ、帝王と対峙していた。市民の頭部は本、おそらくは憲法を象徴している。憲法が帝王の視線を妨げ、帝国の終焉を告げているのであった。




9.11に出会ってしまった私たちは、どうしてももう一度、ホロンの市民達に取り囲まれたかった。市民の視線が形作る広場の中央に立ってみたかった。「市民の連帯」という言葉さえも古さを帯びている現在(2025年7月)、それでも市民の広場を希求する心は変わらない。
翌日のリスボン空港では、短機関銃の引き金に指をかけた憲兵達が行き交い、ヘジャブで頭部を覆ったイスラム圏の女性は別室に連れ込まれ、乗り継ぎのフランクフルト空港では、帰国便が止まったアメリカの人たちが、それこそマグロ市場のように、通りを埋めて寝転んでいた。
忘れまい。ホロンの市民達とともに、私たちは生きていく。



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